GUNSLINGER GIRL 追記

実は、これが全くの異世界の出来事なら問題はない(!?)のだけれど、なまじ作者の趣味の「イタリア」が舞台でそれが前面に出ているために、ちょっと訝しげな感じになっている部分もあるのでは。
と前に書いた。ジョゼらについて「僕たちと同じ倫理観で見ているから、ひどいように見える」という意見がある。ようするに価値観の違いだ。だから、これが全くの異世界の出来事なら問題はない(!?)というのは、僕らと違う倫理観を持つ世界に住む人たちなんですよ、ということを建前にすれば、うまくかわせるのではないかということ。ここでネックになってくるのは「イタリア」が舞台ということだ。同じ地球上、ひいては先進国といったそれなりには価値の共有できるような人々*1が住む世界だからこそ、我々の倫理観に照らし合わせて……となるし、それは当然のことのように思える。
では、GUNSLINGER GIRL異世界を舞台にしとけばよかったのかというと、そうではない。やはり「イタリア」が舞台でなくてはならないのだ。言い直せば、実在の国でなければならない。
というのも、もともと「銃器を持って戦う少女たち」というお題目自体がリアリティーゼロなわけ*2で、ではリアリティーをどこで回復するのかというと、他の細部に当てられる。つまりは、実際のイタリアの風景、実在するマフィアの名称、社会福祉公社などといったもっともらしい名前、ガンマニアもうなるほどの銃器の登場。こういった背景がきちんとしているからこそ「ガンスリ」のキャラクターたちがちゃんと立つことができるわけだ。
かりに、GUNSLINGER GIRL異世界でドンパチドンパチやるマンガだったら、kiaoは恐らく読んだりしないだろう。イタリアの風景や人物の描き方(ヴィジュアル)が緻密で、政治的抗争も絡めまるで映画を見ているような魅力がある(最近の話は置いといて)。そんなところに惹かれるからこそ、「戦う少女たち」というマンガ的要素を加えた化学反応がとてもおもしろく感じられるのだ。
そこまでいっても、社会福祉公社の存在・やりくちはおせじにも現実的とは言いがたい。しかし、この公社こそは、「銃器を持って戦う少女」というノンリアリティーと「イタリアが舞台」というリアリティーをつなぐ唯一の「役目」を担っているため、この組織の存在・やりくちを変更することができないのである。違和感があるのに変更できない、作者にとって、読者にここだけは見逃してもらいたいという部分ではなだろうか。

*1:先進国に住む人間の倫理観のほう上級だと言っているわけではない ねんのため

*2:人材の発掘・洗脳・教育・副作用や存在が露呈した時の国際的批判といった組織的社会的リスクを考えると、大人一人を使った場合と比べ、そのコストがあきらかに大きすぎるのは自明である  あと、「少女」である必要がない