思うこと

海外の古典ミステリーを読んだあとに国内ミステリーを読むと、えらく読みやすく感じるのには驚く。思ってみれば、クイーンなど何十年前の作品なのだ、だけど読んで面白い。映画やゲームなどは技術の進歩が早いから十年もたってしまえば古さが目に付くようになる。しかし技術の進歩は現在の作り手にとって過去の作品群へのアドバンテージとなる。「新しい」というだけで一つの「売り」になる(相対的に過去の作品群を陳腐化させることができる)。逆に言えば書いたものを読むという原始的な構造の小説は、作品の耐久性が強いために常に過去の作品群との比較にさらされる。これは新しい作り手になればなるほど脅威だ。
では、小説家よりも映画製作者やゲームクリエイターのほうが有利なのかといえば、そうともいえない。なぜなら、技術水準が上がるほど、そのクオリティに達するためのコストがかかるからだ。高コストになるほど、それをまかなうほどの収益が必要となり、規模も演出もどんどん派手になってゆかざるを得ない。
しかし問題となるのは、人間(の内面)というのは時代の変化ほど急激には変わったりしないということだ。いつの間にやら、その技術進歩の波から置いてきぼりになってしまっている。だから、派手な演出が当たり前となっているゲーム機より、ハンディゲーム機(しかも、コアなゲームよりライトユーザー向きのゲーム)が気づけば売れるようになっているのではないか。そして人間は急激には変わったりしないからこそ、何十年も前に書かれた小説でも楽しむことができるのだろう。
もしかしたら、100年後の未来人にとってみたら21世紀初頭の我々の技術進歩の速度さえずいぶんゆっくりに思えてしまうかも知れない。だけど彼ら自身の内面性は、おそらく現代を生きる我々と大した差はないのではなかろうか。
小説は19世紀の発明だといわれた。映画は20世紀の発明だといわれた。21世紀の発明はどうなるのだろう。20世紀の名作映画は次々リメイクされてゆくだろう。人の心が普遍性を持つならば、名作といわれる小説は100年後も誰かの手にとられて読み続けられる、のか!?