やっぱり世間の多くの読者は、読んだ本が心の中に意味もなく残っちゃったりすると、不安でしょうがないんです*4。

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

柴田「(中略)「キャッチャー」では何も学習されていない。
 でも、だからこそ、繰り返し読むときのおもしろみもありますね。学習する話は、読み返すと、学習した地点から人物を見てしまいますから、人物に寄り添いにくい。上から見てしまうんですね。でもこの小説はホールデンに寄り添っていくしかない(以下略)」

 ふらりと寄ったとある書店、たまたまその棚にあった本書が、ふと、目に留まった。購入きっかけは「村上春樹×柴田元幸」というところ。内容は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の話を中心に構成されている。購入したはしたが、懸念要素が一つだけあった。それは
 kiaoはサリンジャー作品を全くといっていいほど読んだことがない*1
とはいっても、有名すぎるほど有名な作品とということで、なんとなくはどんな雰囲気の作品であるかというのは耳に入ってきている。ここではなかなか貴重な読者サンプルがとれたのかもしれない(著者らの想定の範囲外であるかも)。
結果から言うと、なかなか楽しむことができた。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の話を軸に、「君」という語り方をどう扱うかという文体についての話、翻訳というものについて、(その当時の)アメリカの青年にとっては軍隊に入る、または戦争に行くということが一つの通過儀礼となっている文化の違い、それに影響されたサリンジャーひいてはアメリカ文学について、など興味深い対話がそこにはあった。
まるで、デッサンにおいて石膏像の周りの風景を描きこむことによって逆に石膏像が浮かび上がってくるかのような感覚だった(もちろん、ここでいう石膏像とはホールデン少年のこと)。
二人の対話はまるで、少年時代にともに同じ時を過ごした「ホールデン」という少年をお互い懐かしむように進んでゆく。とはいうものの、ふたりともこの作品にどっぷりはまっていたわけではないらしい。

村上「(中略) だからそんなに『キャッチャー』という小説にはまった(原文 傍点)というわけではないんです。来る(原文 傍点)ということでいえば、カポーティのほうがずっと来ました。でもキャッチャーって、(中略)不思議に心に強く残っているんです。(以下略)」

作品に対して適当な距離がとられ、近視眼的でないからこそ視点を変え、距離を変え、それでも心に強く残ったという「それ」を掘り当てようとするかのように二人は語り続ける。ここまで一つの本について語られ、どんな感じの本かわかってきたのでもう読まなくてもよくなったかというと……そんなことはない。むしろだんぜん読みたくなってきた。

柴田「 (中略)授業で学生と小説を読んでいて、みんな口で言うよりわかっているという実感はあります。(中略)腹ではそういう、言葉になりにくい倍音を感じとっている。」
村上「 (中略)倍音の込められている音というのは身体に深く長く残るんですよ、フィジカルに。でも、それがなぜ残るかというのを言葉でもって説明するのは、ほとんど不可能に近いんです。(中略)すぐれた物語というのは、人の心に入り込んできて、そこにしっかりと残るんだけど、それがすぐれていない物語と機能的に、構造的にどう違うのかというのは、言葉では簡単にはわかりやすく説明できない。(中略)」
柴田「 そのよさを言葉にしようとすると、『社会に反抗する無垢な少年の物語』とかいうふうになってしまう。」

言葉にならない「何か」があるからこそ、人はそれを「物語」という形で表現しようとし、表現してもしきれることがないから、「物語」は生み出されることを終えようとしない。人が死ぬ時も言葉に表現しきれない「何か」を残したまま消えてゆくのだろう。それは少し寂しい気もするが、しかしそれこそが人に譲ることの出来ないその人の「オリジナル」なのだと思う。「共有できない」からこそ「オリジナル」なのだ。生きるということの意味の一部は、そんなところにあるのかもしれない。

*1:昔、ナインストーリーズを読んだ記憶だけはあるが