生きるということは、どういうこと!?

ふと、自分の置かれている状況を振り返ったとき、「いったい、このままでいいんだろうか」と思うことがあるだろう。要するに、今の自分の立ち居地に満足していない時だ。そんな時、いくつかの言葉が頭に浮かぶ。

「人生、一度しかないんだから、好きなことをしなければ後悔するよ」
まさに正論。「私は○○をするために生まれてきたんだ」という神のお告げにも似たものを所有している人はいいけれど、多くの人々は生まれ出た後に、自分の成すべきことを必死で考える。ではその行動規範は何によればいいのかというと、そのひとつに「自分の好きなこと」が挙げられる。人間が幸福感を左右するのは、自分のしたいことが出来た時だ。だから、自分のしたいことをする、もし明日突然死んでも後悔しないように。しかし、ここで挙げられる意見は人間の個人的願望・内面的立場に立脚したものである。人は、個人的な側面を持つと同時に、社会的な側面をも持つ。で、その社会的立場から見た意見というものがこれ。
「みんながみんな、好きなことをできているわけではない。自分の立場・能力を考慮した行動を尊守しなさい」
これも正論。みんながみんな好きなことだけをしたら、この社会が成り立たなくなってしまうのは明白である。自分のしたいことではなく、自分の出来ること・しなくてはいけないことをきちんと遂行する。そういった人たちによって自分が(この社会が存在すると同時に、その一員として)支えられているのだから、自分もそのように行動するのが、人としての生き方としてまっとうなのではないか。ということ。
この「社会的に生きる」ということによって得られるものは、「ある一定の賃金の享受」と、それによる「社会的信用」*1だろう。簡単に言えば「お金」。金銭は人間の幸福にとって十分条件ではないが必要条件である。もちろん、お金を持てば持つほど幸せ…なんてことはないが、逆に生活に困るほどお金に困窮すれば確実に心は荒む。これは事実。「そんなことはない」という人もいるだろうが、少なくとも貨幣が人々に共通価値を持たせる(経済)社会に身をおく我々にとっては、自明の理。お金がなければ、得たいものが得られないのだから(それが生活必需品だろうが、贅沢品だろうが)。そういった心の荒みに身を置きたくないからこそ、人は辛くても必死に働くのだ。
人が生きてゆくとき、そのどちらをもうまく配分してバランスよく生きてゆく必要がある。先の文の、後者によって得られるものは「安定」。社会とは、誰かが誰かの犠牲になることによって安定を保つように機能している。問題をあげれば、自分が犠牲にしている何かは分かりやすいが、誰かの犠牲によって得た自分の利益は目に見えにくい、ということ。
ここで視点を変えてみる。一つ問題なのは、「自己犠牲」は「幸福感」に関係があるのか、ということ。「献身」という言葉をWikipediaで検索すれば「マザー・テレサ」が出てくる様に(うそうそ)、他人に尽くすことに一生を捧げたように見える彼女でさえ「自己犠牲」という思いは殆どなかったのではないか!?そう、彼女は献身を「したいから、やった」のだろう。だからこそ自分の行為に喜びが持てたし、そもそもそうでないと続かない。
とすると、ここに一つの答えが出てくる。「自分のしたいこと」が「誰かの利益」になればいいのだ。…それができるのなら、ねぇ。この、「自分のしたいこと」が「誰かの利益」になる力の大きさが「才能」と呼ばれるものと言えるかもしれない。
では、「才能」を持たざるものは幸せに成れないのかというと、これは一概には言えない。なぜなら、才能の有無はある程度他人が評価できるが、その人が幸福であったかどうかというのは、他人から評価できないのだから(むしろ「才能」というものは他人が規定するものなのだが、それはまた、別のお話)。
要するに、才能があろうとなかろうと、幸せになる方法(の一つ)は「自分のしたいこと」をすること。そのことによって社会的な安定が得られるかどうかは、「才能」はもちろん「社会環境」やら「運」など多くのファクターに左右される。そして覚悟。己の道を信じ、生きたいように生きるには五味太郎の言う「基本的に野垂れ死にができる」覚悟が必要。

生きとし生ける者すべてが幸福になれるというのは、幻想だと思う。幸せでなければ生に意味はない、という考え方のほうが危険ではないだろうか。誰だって幸せにはなれるのなら、なりたい。が、願望と定義は別のお話。
人それぞれ事情はあるし、ま、生きたいように生きましょう。

*1:例 ) 不動産屋に行って、フリーランスよりも会社員のほうが信頼される、など。