アフター・ダーク -AFTER DARK, MY SWEET-

アフター・ダーク

アフター・ダーク

 おれは人生の半分を医者の話を聞いて過ごしてきた。ところが、俺の話をちゃんと聞いた医者はひとりも思い出せない。おれの言うことに少しでも注意を払った医者はひとりもいなかった。どうしてなんだ? どうしてなんだか、教えてくれ。だって、一番関わりが深いのはおれなんだぜ。おれがどんな状態なのか、一番よく知っているのはおれなんだ。おれが世界一の権威者なんだ――キッド・コリンズに関しては。キッド・コリンズという症例に関してではなく、キッドという人間に関して。おれは彼が何に耐えてきたか、どこまで耐えられたかを知っている。そして何よりも、何よりも大事なこととして、おれは世間の人間が彼をどう扱ってきたかを知っている。
(P.P.99-100)

 
 “理解という名の愛がほしい”
 
 ……と言ったのは誰でしたっけか。ジム・トンプソンの小説に出てくる主人公達も、それぞれ形は違いこそすれ、彼らが一様に欲しているのは自分を”本当に” 理解してくれる人間なのです。
 
 それは親でしたり、惚れた女でしたり、同じ町に住む人々でしたり。
 
 自分を正当に評価できていない周囲に内心憤慨しているなか、「いや、周りが思っているほどお前は馬鹿ではないはずだ。むしろ奴らはお前のことなんて何もわかっちゃいないんだ」という兄貴風ふかせた理解者が現れたりすると、実はそいつこそが彼を煽てて利用しようとしているに過ぎなかったりします。そしてそんな風に自分を利用しようとしているのが分かっているので、ますます怒りがこみ上げてくるといったように、その渇望は満たされることはありません。
 
 彼はまた、運命の女に愛を求めてみます。それは無垢な子供に与えられる、無償の愛の様な。しかし男は子供ではありません。傷つき、妬み、失望し、一種の狂気を抱えた存在なのです。そしてまた、女も子供ではないのです。
 
 愛を得られず、懐疑の果てにたどり着く地は、死か、破滅か。
 
 
 惨めに消え去ってゆく人間の物語。そうした存在を提示するジム・トンプソンの小説は、それ自体が一つの愛なのではないかと、kiaoには思えてならないのでした。
 

 できることなら、自分の手で終わりにしただろう。だが、なぜかできなかった。それも不思議はないかという気もしたが。人間は、続ける理由がなくなっても、それまでしていたことをなかなかやめられないものだからだ。自分は人生に対してろくなことができないし、人生も自分に対してろくなことをしてくれない。そして、いつまで経ってもそれは変わりっこない。それでもやめられない。何かに突き動かされて、何かがささやいて、同じことを続けていく。希望なんかありっこないのに、希望をいだいてしまう。続けるべき理由があるかのように思いこんで、ずっと頑張り続けていれば、いつか報われるのではないかと勘違いしてしまう。
 人間はみんなそういうものだ。少なくともほとんどの人間は。おれはずっとそうだった。何年も、おぼえている限り昔から。おれは進んでも意味がないとわかっていながら進みつづけてきた。今も同じだった。やめられるとしたら、それは誰かにやめさせてもらう以外にはない。
(P.P.240-241)