世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

上巻を読み終える。表題どおり、「世界の終わり」という話と「ハードボイルド・ワンダーランド」という話がそれぞれ平行して進んでゆく。前者はファンタジー、後者はちょっとSFちっくな小道具のあるハードボイルドもの。上巻はやや後者のほうがとりあげる比重が大きい。
自分にとって村上春樹は「ノルウェイの森」に続いて2作目になる。あきらかにこっちのほうがおもしろい。基本的には主人公はどれも受身の人間なのだけれど、「ノルウェイの森」のほうは主人公の受身が「とくにがんばって生きてゆく気力もないけれど、なんかまわりの女の人が僕を使いたがるから動こうかな」みたいな(いいすぎ)感じが少し好きになれない。たしか、この受身姿勢の書き方が、「小説における状況説明と心理描写の乖離」の再融合を図られていると何かの本で読んだ気がしたが、そういう意味では革新的なのかもしれない(また他の本では、前もって(作者が書く)主人公には喪失感が存在し、それになかば強引に物語を作るために悲劇を用意している体裁をとっている、というのもあったが、それはまた別の話)。本多孝好を読んだあと、「本田は村上チルドレンそのものだ」とやたら聞くのでそれで「ノルウェイの森」を読んだときは、「ああ、この感じがそういわれるのか」となんとなく感じたのだけれど(「いや、本多なんて村上を何倍にも薄めたスープみたいなもんだよ」という声もあったけど、それもまた別の話)。
本書での二人の主人公「僕」と「私」。「世界の終わり」の「僕」はあまり受身の印象を持たなかった。作者が主人公に持たせようとする「喪失感」を、「僕」が背負わなくても、舞台である壁に囲まれた町「世界の終わり」自身が背負ってくれているためなのかもしれない。この「世界の終わり」が退廃的・滅亡的でなく、春夏秋冬の(次の春が来ないというだけの)冬という(個人的な)イメージでなぜだか心地よい。世界の「終わり」が、夕暮れのような一日の「終わり」や植物の葉が落ちてゆくような季節の「終わり」と同じような、少し寂しい「美しさ」がそこにはある。
「ハード…」の「私」は受身といえば受身なのだが、権力欲や具体的な夢(引退後に習い事でもしながらまったり暮らしたいという程度はあるが)もなければ、特に強い性欲もない、「慎ましやか」な存在というほうがちかい。中年の入りかけにしては妙に達観したところや、ことばの節々に隠れている頭のよさそうなところは村上の主人公っぽいところだけれど。それでも、ある事件が起きて、それに関わってゆこうという姿勢が「ノルウェイ」が(自発:他力)1:9ぐらいなのが「ハード…」3:7ぐらいに(個人的に)感じられる。「ハード…」は主人公が動く意義が自然に感じられたのに対して「ノルウェイ」では「そんなにめんどくさそうに動くんなら、別にやらなくてもいいじゃん。でも、それでは話が続かないから、結局は動くんでしょ」的なところが(自分は)感じられた。それは先述した「あらかじめ喪失感があり、それにあわせて悲劇がある」という構造にも由来するのかもしれない。
それよりなにより、「ハード…」には先が気になる物語としてのエンターテイメント性が心地よい。「世界の終わり」はその世界観や描写を味わえる魅力がある。
読み進める当初はこの二つがどうやって最後はクロスするのだろうと思っていたが、上巻読み終わった今となってはなんだかこのまま平行に終わってもいいように思えてきた。それだけ、この2つの物語は異なる魅力を持つ。

下巻を読むのが少し楽しみだ*1

*1:年明けになりそうな予感