新書

現状のメディアの何が問題かというと、(事実を)*1再構成をしているのにもかかわらず、記名姓がない。同時に、その再構成の主体が個の主観ではなく、会社の方針や世論への迎合という擬似主観であればあるほど、中立で客観的であると思い込みやすい。

どんなメディアにおいても、事実を事実のまま伝えることなんてことはなく、そこには構成という名の意図(それが要約や簡略化、誘導、隠蔽、詳細さをだすためなど、どの目的だとしても)が介在する。モノを発言するのに重要なのは「何を」言うのかという部分と「誰が」言うのかという部分がある。その「誰が」の部分で責任をとるのを恐れるあまり個人は組織に埋没し、組織は社会に埋没する。メディアが公器としての役割より企業(利潤追求組織)としての側面の肥大化・減点主義体質による批評の回避などにより。
少し前までは情報媒体はTV・新聞・ラジオ・書籍といったものが主流だったし、そこからしか情報を得ることができなかった。しかしブロードバンド環境の整備、HPやweblogの流行により、誰もが情報を発信でき誰もが情報を享受できるようになった*2。しかし誰もが情報を発信できるということは情報のスクリーニング機能が働かない状態であり、玉石混合に陥る。そのなかで重要になるのは記名姓である。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものであり、人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れるその覚悟として無記名よりはHN、HNよりは実名のほうがその社会性は高い。特にジャーナリズムといった社会に対して何か異議申し立てをしたいという意識が強いほど、記名姓の持つ力は強くなってくる*3。身の安全を考えるならば実名をさらさないほうがいいが、そのかわり記事の(責任に裏打ちされる)信憑性は下がらざるを得ない。
記事の面白い・面白くないはそれらには関係しないし、どの情報を信用するかも読んでいる人の自由*4
ただ、マス・メディアにおける記名姓とwebにおける記名姓の重要さの違いは、webの場合は情報を求めようとする人(アクセスする人)がその情報を得る点にくらべ、マス・メディア(特にTV)は情報の垂れ流し的な部分が強く、情報を特に得ようとしない人にも情報が入ってきてしまう点が強い*5。そういった意味での(メディアの)記名姓の重要さであり、責任なのである。

*1:引用者・注

*2:環境があれば

*3:だから、趣味でやっているようなサイトやおもしろい記事を掘り出してくるようなニュースサイトは記名姓の考えは特にいらない

*4:実名であってもくだらない意見もあるし、匿名であっても説得力のある記事もある、が真実かどうかは判断しにくい。

*5:広告における媒体戦略の違いで考えると分かりやすいかもしれない