やっぱり最期にはドルリー・レーンの出番

Zの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

Zの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

いきなり10年後に話が飛んでいてびっくりした。
「X」「Y」ときて「Z」の一番の違いといえば、前二作が三人称の地の文だったのに対して、今作は主人公側のサム(元)警部の娘、ペイシェンス・サムの一人称で物語が語られてゆくこと。そのためか、文章が軽くて読みやすい。ただ、これら三作を訳者を統一して読んでいないので、これが元の文章によるものなのか訳の違いによるものなのかは判断しかねる。
ペイシェンスは家庭内に治まるよりも仕事をして飛び回りたいという快活なキャラクターなので、事件の解明のため積極的に動き回る。またその頭の切れのよさは、父親さえも舌を巻くほど。世の男性と同等に渉りあいたいという気質から、同年代の男性よりも尊敬に値する年配に憧れを持つために、優れた知性と頭の働きを持つドルリー・レーンに興味をしめすのも当然のことだろう。
事件に関しては、予想外の結末というほどではない。想定の範囲内。だが、最期レーンが無駄な選択肢を消去してゆき犯人を絞り込む供述は見事なものだ。ただ、本人が言っているように、推理することによって犯人に心理的圧迫感を与える目的が強いために、論理的ではあるが決定的ではない。古畑任三郎ぐらいの謎解きと考えれば妥当ではないか。この結末に至るのは、解決に与えられている時間が限定されているためという理由があろう。そのために、読者はタイムリミットまでに間に合うのかという緊張感と味わうと同時に、その結果であることに折り合いをつける終着点に(やや補完が足りなくても)納得しなければならない。それでも、読んでいてそれなりに楽しめた。
そして今作においても、レーンは苦戦している。謎の解明においては本人の中で答えが出るのに遅くはないのだが、事件の解決という点で見るとなかなか王手をかけることができない。それというのも、本当に他の可能性がないかと絞り込めるまでは動き出さない慎重な男であるからだ。具体的証拠で犯人を追い詰めなければ意味がないことを十分理解している〔推定無罪〕を地でゆく男も、今回はやや変化球で勝負せざるをえなかったようだ。
「Z」であることがやや強引だと解説では述べられていたが、「X」だって「容疑者X(仮のX)(反転)」の「X」だったのだから、意味の深くなさは大して変わらないと思う。

kiaoの頭の中で、ファニー・カイザーは「フルアヘッド・ココ」のレイラ・スパードにイメージ変換されていた。