純粋とは凶器であり、狂気である

一九七〇代以降の男性が「○○○のためなら死ねる」の「○○○」に、「彼女」を代入していった歴史をこの本では追ってきました*1
(…中略…)「○○○のため」の「○○○」を言い訳にして、それ以外のものを人は踏みにじってきました。そういう歴史があります。
ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』より

そしてその例として筆者は「国や天皇のため」に普段だったらできないような行動を、「会社のため」であったら社会的に迷惑行為でも犯罪行為であってもいとわず、「革命のため」であったら仲間同士の殺し合いも、「家族のため」であったらルール違反の裏口入学に大金を積んだりするのも、責任を自分という個人から切り離すことで行ってきたこととして挙げている。

「○○○のため」なら何でもできる、裏を返せば、「○○○のため」なら何を犠牲にしてもかまわないというのは「純愛」にも当てはまって、それを言おうとしたのが『白夜行』なんだけれども*2

ドラマ版は製作者の意図により、東野圭吾の捩れた狙いがもとにもどされて素の純愛ドラマになってしまい……。結局最期まで素の純愛路線だったのだろうか。もう見ていないのでわからないけれど、まあべつにいいや。第一話が子役の演技も含め「神」だったってことで。

これを書いた理由は、上記の本がたまたま発掘されたので、ちょっと読み返してみたから。ただそれだけ。

*1:たとえば「タッチ」が、(…中略…)甲子園を目指すのは、彼女がそうしてほしいと言ったからであって、それは私のせいではないのです。責任は彼女の側にあります。男は、そう思うことが可能になっています。〔P183より〕

*2:愛する人のため」ならその他の人間を犠牲にしてもかまわない