音楽は言語を介さないコミュニケーション手段
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「私は 音楽だから」*1
演出された分かりやすい起承転結になれた人にとっては、さそうあきらのマンガはちょっととまどいをおぼえる*2。kiaoもそうだった。でもわかった、さそうあきらは「演出」にそれほど興味はない人間なのだと思う。
この場合の「演出」とは情景描写というよりかは、「ここで読者を泣かせてやろう。そのためには主人公を白血病に陥らせてみては」といったような、ある種のいやらしさ、それがないということ。
著者はとにかく「話」をみせたいのだと思う。はじめからラストまでを頭の中ですべて固めてから、物語を始めている。だからひとつひとつのエピソードは、その物語全体におけるひとつのピースでしかなく、わりと重要そうなシーンでも演出過多にならず、さらりと終わってしまうのだろう。
この「神童」でも、よくみたらベタな展開がけっこうある。それを臭く感じさせないのは、この力の入れなさ具合によるのではないか。
「神童」の一貫したテーマは「コミュニケーション」だと思う。だから、ラスト近くのあの展開は、作者的には必然なのだった。
うたはピアノの天才だ。普通の人(それは主人公である和音も同様)からみたら、ピアノを弾くという「特殊能力」に最も「特化」した人間であるというふうに見える。しかし、うたにとってピアノは、物心ついたときから身につけている「日常能力」であり、言葉を喋ることとなんら変わりはないのだ。だからうたが和音のピアノに「へっただな〜!!」というときも、「音楽的センスがないな」ということではなく「べしゃりがこなれてないな」というのと同等のニュアンスを含んでいるのだ。
「お前には耳も指もある 茶髪。
だがハートはこの小学生の受け売りだな。
お前に歌いたい歌はないのか 茶髪!」
第28話 迷走のうた より
凡庸な人間の代表である和音*3は必死で「ピアニスト」になろうとする。だが、うたにとってはピアノを弾くと言うのはしゃべるのと同じ。だから、「しゃべる人」になろうという観点はもちあわせていない。
そういった「コミュニケーション」の天才であるうたは後半、ある絶望的な状態におちいってしまう。だからラストでうたたちが触れあう人々も、一般の人から見た「コミュニケーションのためのツールを奪われた人々」であり、うたが所有していた能力も、その人たちが持っていた(かもしれない)能力も、その機能として同様のものだったというメタファーになっているのだろう。
アガリ性のオレが今は落ち着いている――
コンクールよりもオレは 客席にいるただ一人に音が届けば――それでいいんだ
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 終楽章――
第43話 七色の空のうた より
認められたいという想いよりも、誰かに伝えたいという思いのほうが、何倍も強い。