音楽は言語を介さないコミュニケーション手段

神童 (1) (Action comics)神童 (2) (Action comics)神童 (3) (Action comics)神童 (4) (Action comics)

神童 (1) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (1) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (2) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (2) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (3) (双葉文庫―名作シリーズ)

神童 (3) (双葉文庫―名作シリーズ)

「私は 音楽だから」*1

演出された分かりやすい起承転結になれた人にとっては、さそうあきらのマンガはちょっととまどいをおぼえる*2。kiaoもそうだった。でもわかった、さそうあきらは「演出」にそれほど興味はない人間なのだと思う。
この場合の「演出」とは情景描写というよりかは、「ここで読者を泣かせてやろう。そのためには主人公を白血病に陥らせてみては」といったような、ある種のいやらしさ、それがないということ。
著者はとにかく「話」をみせたいのだと思う。はじめからラストまでを頭の中ですべて固めてから、物語を始めている。だからひとつひとつのエピソードは、その物語全体におけるひとつのピースでしかなく、わりと重要そうなシーンでも演出過多にならず、さらりと終わってしまうのだろう。
この「神童」でも、よくみたらベタな展開がけっこうある。それを臭く感じさせないのは、この力の入れなさ具合によるのではないか。
「神童」の一貫したテーマは「コミュニケーション」だと思う。だから、ラスト近くのあの展開は、作者的には必然なのだった。
うたはピアノの天才だ。普通の人(それは主人公である和音も同様)からみたら、ピアノを弾くという「特殊能力」に最も「特化」した人間であるというふうに見える。しかし、うたにとってピアノは、物心ついたときから身につけている「日常能力」であり、言葉を喋ることとなんら変わりはないのだ。だからうたが和音のピアノに「へっただな〜!!」というときも、「音楽的センスがないな」ということではなく「べしゃりがこなれてないな」というのと同等のニュアンスを含んでいるのだ。

「お前には耳も指もある 茶髪。
 だがハートはこの小学生の受け売りだな。
 お前に歌いたい歌はないのか 茶髪!」
第28話 迷走のうた より

凡庸な人間の代表である和音*3は必死で「ピアニスト」になろうとする。だが、うたにとってはピアノを弾くと言うのはしゃべるのと同じ。だから、「しゃべる人」になろうという観点はもちあわせていない。

そういった「コミュニケーション」の天才であるうたは後半、ある絶望的な状態におちいってしまう。だからラストでうたたちが触れあう人々も、一般の人から見た「コミュニケーションのためのツールを奪われた人々」であり、うたが所有していた能力も、その人たちが持っていた(かもしれない)能力も、その機能として同様のものだったというメタファーになっているのだろう。

ガリ性のオレが今は落ち着いている――
コンクールよりもオレは 客席にいるただ一人に音が届けば――それでいいんだ
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番 終楽章――
第43話 七色の空のうた より

認められたいという想いよりも、誰かに伝えたいという思いのほうが、何倍も強い。

*1:この台詞は全てを集約しているとはいえ、ちょっと不自然かな。演出的にわざとだと思うけど。明石家さんまが「おれは、べしゃりやねんから」とは言わないのと同じで。

*2:テンポががたついている部分も弱冠あるけれど

*3:とはいっても、後々に腕を上げはじめるのだが