わたしだけが語れる物語

わたしを離さないで

わたしを離さないで

数年前、このときのことをトミーと振り返っていて、先生の「教わっているようで、教わっていない」説に話が及んだとき、トミーがこんなことを言いました。
「何をいつ教えるかって、全部計算されてたんじゃないかな。保護官がさ、ヘールシャムでのおれたちの成長をじっと見てて、何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解ができるようになる少し前に教えるんだよ。だから、当然、理解はできないんだけど、できないなりに少しは頭に残るだろ?その連続でさ、きっと、おれたちの頭には、自分でもよくかんがえてみたことがない情報でいっぱい詰まってたんだよ」

主人公であるキャシーの深く、静かな語り口が全編に亘って展開される。その端正な語り口が、この物語に静謐さを与え、深く、静かな時間を読者に与える。
ここからはかなり個人的な感想。内容にも少々触れる。
この物語は、全編に渡って、(過去を振り返る形で)キャシーの一人称で語られている。その語り口が、静謐さを持てば持つほど、なぜだか逆にテクストへの信頼感が揺らいでくる(つまり、内容に必要以上に誠実さをデコレーションさせて、それが故、客観性をもった3人称からかけ離れてゆくような)。だからなのか、ヘールシャム・その後におこった出来事の真実を、全て知ったように思えないのだ。要は、何を語るも語らないもキャシーしだいなので。
キャシー・ルース・トミーの三人の関係も、読み進めてゆけば、ルースの突発的な発言(行動)、「今となってはそれもしかたのなかったことなのだと、私は思います」的なキャシーの再三にわたりすぎる弁護的口調、ルースは知らないであろうキャシーとトミーの友愛関係、これらの要素で読者がルースのことを少し疎ましく思い、キャシーとトミーに肩入れさせようとする構造がありありと見えてしまうのだ。
だから思ったとおり、キャシー・ルース・トミーの三人の関係が破綻するのも、もちろんその引き金を引くのはルースの仕業で、その被害を被るのはキャシーとトミーなのだ。全てが(読者がキャシーに完全に肩入れさせるのに)都合が良くて、キャシーが語らないでいるところに、さらに大事な真実が潜んでいるように思えてならない(それはまるで、西澤保彦の「黄金色の祈り」のように)。
そういう意味では、解説でもあるように、

『日の名残』までは、要するに現実に何が起きたのかを解き明かすことがある程度大きな要素だったのに対し、その後は次第に、一人の人間の頭のなかで起きていることが主要な関心事になってきたとも言える。

と狙い通りといえるのかもしれない。自分の(周りにあった)ことを語るのに、自分の都合の悪い話をする人はいないからねぇ。

この読みは、かなり捻くれているかもしれない。しかし、一方的に語られたルースのほうにも、なにか言い分があったろうな、と思えてしまったので