テーマは、「相手を認めること」

リストランテ・パラディーゾ (f×COMICS)

リストランテ・パラディーゾ (f×COMICS)

おもしろい。
オノナツメのマンガを初めて読んだ。この、人がお人形チックに見えるペンタッチは、読者の好みが結構分かれそう。この話はイタリアが舞台なので、「外国の絵本を少し大人向けにアレンジした」ようなマンガを見ている感覚で、楽しめる。
紳士に萌える感覚というのがkiaoにはよく分からなかったのだが(それは主人公であるニコレッタも同様)、話を読んでゆくうちに、リストランテ・パラディーゾで働く紳士たちの魅力がジワジワと伝わってきた。
その魅力の一つというのは、「あるがままの相手」を認めることということであり、この、相手を認めるというのが、この本を通じてのテーマだと思う。
例えばニコレットが「店でイチバン人気なのって誰なんだろう」と疑問を持ったとき、フリオは「ルチアーノじゃないの?」と言い、ルチアーノは「ヴィートだろう」と言う。ヴィートは「テオが厨房から出てくるのを心待ちしている客も多い」と言い、テオは「俺はフリオだと思うけど?」と述べ、でもフリオは「私は伊達眼鏡だし、駄目でしょう!」と言ってみんなと笑う(この店では、お客さんの要望にこたえるため、従業員に眼鏡の装着を義務付けている)。この談話の最期、誰の台詞だかわからないが「料理目当ての客ももちろんいるよ」とさらりとつけ加える。
ここの誰もが、自分の立ち居地をキチンと認識し、あるがままの相手を認め、それでいて敬意を忘れない。これらの要素が彼らの魅力として、我々に(紳士に萌える人にとっても)輝いて見える部分なのだと思う。
それは、ニコレッタとオレガの母娘の関係も、オレガとロレンツォの恋人関係にも通じるものであり、従業員とお客の間にももちろん通じるものなのである。

嫌うという感情は相手を否定したいだけの感情ではない。相手に否定されたくない(否定されたと思いたくない)という感情の裏返しで、先制攻撃のような意味の(相手)を嫌うという行為もある。
ニコレッタがオレガを思う気持ちもそうだ。結婚したい男のために自分をお祖母さんのところに置いていった母親。そんな彼女のもとへ、わざわざニコレッタが成人してから会いにいったのも、「私はあなたに迷惑をかけにきたんだ(疎ましく思われようと、私の存在を忘れさせたりなんかしないんだから)」という感情が働いているのだろう。

(以下、未読の方は少々注意)
ラストのオレガの誕生日パーティーでのこと。オレガがロレンツォの目の前でニコレッタを自分の娘だと告白したのは、女として生きたオレガのことをニコレッタが認めてくれたからだ。あるがままの自分を認めてくれた娘、そんな娘に今までの自分を申し訳なく思わないはずがない。先制攻撃の「嫌い」を取り除けば、人はきっと分かり合える。
そんなことをニコレッタから教わったクラウディオは、このパーティの数日後、はずそうとしてもはずせなかった指輪を(元妻の)ガブリエッラにやっと返す。クラウディオはもちろん、ガブリエッラのことは嫌いではない。むしろ、未練を引きずり続けたくらいだ。指輪をはずせなかったのは、夫婦でいたという証拠を一方的に持ち続けることによって、クラウディオと別れた後のほうが活き活きとして見えるガブリエッラを(それは多分に、あのころの生活を遠くにおいやってゆくように見えたガブリエッラのことを)、一方的に認めたくなかった男の静かな先制攻撃だったのだ。

こうして一つ、自分と、自分の周りにいる人たちとの関係を一歩前へ進めたニコレッタとクラウディオの関係が、この後どうなるかちょっときになるところでお話は幕を閉じる。実に、気持ちのいいマンガだった。