辿り着く先は、破滅か、救いか。

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

…それでぼくはわかったんだ、頭脳と精神の強固なものが、彼らの上に立つ支配者となる!多くのことを実行する勇気のあるものが、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑視することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のあるものが、誰よりも正しいのだ!これまでもそうだったし、これからもそうなのだ!それが見えないのは盲者だけだ!*1

上巻の感想はこちら

怒涛の下巻。上巻で撒かれてきた種々が、発芽して育ち、下巻において次々と刈り取られてゆく。主人公ラスコーリニコフが、妹の婚約者ルージンの人間性の信用なさを論破する「逆転裁判」あり、母親と妹のことを友人のラズミーヒンに託してラスコーリニコフが立ち去ろうとし、だがいかに彼の母親と妹が彼を必要としているかを持ち出して必死で説き伏せるラズミーヒンとの「友情の話」があり、老婆殺しの犯人が、どういうわけか別に捕まり、この事件の謎も巷では決定されたかと思われかけたときに、「実は、私はあなたを犯人だと確信している」とラスコーリニコフに突きつけた刑事ポルフィーリイとの「サスペンス」あり、妹を追ってペテルブルグにやってきたおっさんスヴィドリガイロフの「ストーカー」話あり。老婆殺しをおこなったラズミーヒンのその思想と行動の辿り着く先はどんなところなのか、母プリヘーヤ・アレクサンドロブナ、妹ドゥーニャ、友人ラズミーヒンとの関係を絡めながら物語は終焉へと向かってゆく。この1冊(2冊?)の中に、様々な要素がぶち込まれている気がした。

やっぱりラズミーヒンがとてもいいやつで、ラスコーリニコフが自分の犯した行いの決着をつけるために、母親と妹のこれからを彼に託すシーンは、涙が出そうになる。でも、ラズミーヒンはあまりにもラスコーリニコフのことを信用しているから、「ラスコーリニコフは何かの政治的秘密結社に所属していて、これから何か大事を決行しようとしているに違いない」と考えてしまうところは『ラズミーヒン、それは考えすぎだぞー!!」とツッコミをいれたくなってしまった(笑)

また、ラスコーリニコフを犯人だと確信し追い詰めるポルフィーリイも、下巻に入って急にその存在感を強くさせた。彼がまたなかなかのくわせ者で、老婆殺し事件の犯人が別に捕まったことをうまく利用し、ラスコーリニコフが少しホッとした心理的なところを汲み取り、返す刀で「実は、私はあなたを犯人だと確信している」と喰らいつくその様。kiaoのイメージでは『悪コロンボ』(笑)*2。論理的なところではなく、犯人との駆け引きのところで。



この物語には、明示的な罪も、明示的な罰も存在していない。法を犯す=罪 という単純な図式では必ずしもない。

それが――悪事だからか?悪事とはどういう意味だ?おれの良心は平静だ。もちろん、刑法上の犯罪が行われた。もちろん、法律の文字が破られ、血が流された。じゃ法律の文字の破損料としておれの首をとるがいい……それでいいじゃないか!

何が罪で、何が罰なのか。それは読み取る者が各々に感じればいい、ということなのかもしれない。ひとが生きてゆく世界の中でも、明示的な「答え」がないからこそ、ひとはそれを死の直前まで追い求めてゆく。それと同じことなのだろう。


よい読書だった。

*1:この理論を実行した最近のキャラが、八神月か。そういえば。

*2:その後、ラスコーリニコフの頭の良さを尊敬しつつ、自白を勧めるところもコロンボ的イメージに一躍買っている