監視される町、神町。

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

シンセミア〈1〉 (朝日文庫)

シンセミア〈2〉 (朝日文庫)

シンセミア〈2〉 (朝日文庫)

昔のことをみんなちゃんと覚えているから、右向けっつったら右向くし、誰も彼もが黙って従うんだ。(…中略…)お前をただのパン屋だと見るような奴は、神町にはいないよ。一人もな。記憶は残るし、伝わるんだ。仮にみんなが忘れちまっても、思い出させてやればいい。なんなら俺が思いださせてやってもいいんだぞ……*1

群像劇。山形県東根市神町が舞台なのだけれど、読んでいて感じる雰囲気はアメリカ中・南部の片田舎といったもの。…と言っても、住んだこともなければ、行ったこともないのでかなり発言がてきとーなことがわかるが(笑)。小説や映画から得た知識の断片なのだろう、なんとなく頭の中にあるそのイメージ。たぶん、ある一地方を影で支配するフィクサーの存在というのが、日本的なイメージとしてピンとこないのかも。ちょっとゴッドファーザー的な想像をしているもの(もちろん、これらもkiaoの想像力のチープさの問題なのだが)。

登場人物が多いので、覚えきれるかと思ったが、意外や見分けがつく。それというのも、各人物のキャラ的なものによるというよりか、それぞれの人物が置かれている状況(設定)の違いが明確に書かれているからなのかもしれない。

本書には、この町の「青年団」とは名ばかりのビデオ撮影サークルが存在する。彼らは町の衝撃映像を収めようと活動するうちに、町の住人の衝撃映像へと狙いが移り、盗撮をも辞さないようになってゆく。プライバシーの問題という点では、都会よりも田舎の方がある意味危険だ。町を歩けば知り合いに会う可能性は高く、どこの誰が何を買った(借りた)かなんてのも、母数が少ないだけに突き止めやすい。よく田舎は閉鎖的というが、共同体はそれ自体の秩序を保つために、共同体の破壊をもたらすかもしれないよそ者(異物)の進入を極力排除する機能を持つ(それが意識的にしろ、無意識的にしろ)。そのよそ者を「異物」と判断するためには、常日頃から自分の周り(お隣さん)が何をしているのかわかっていなくてはならない。常に他人の動向を把握できる状態、それを「監視」という。

地域共同体における「監視」は意識的なものでなく、なんとなく何をしているのかが耳に入ってくるといった程度にしかすぎない。監視はしているけれど、していないよ、という相互における暗黙の了解がある。だが、彼らのようなビデオ撮影サークルは違う。行動の監視を一方的に行っており、それを相手には知らせていない。これは理不尽であり、暴力行為にも等しい、いやある意味ではそれよりも卑しい行為である。それに輪をかけて凶悪なのは、知人の盗撮だ。この小さな町では、そんな凶悪な行為が容易に行えてしまう。

情報は力だ。それが人の欲するものであれば、高い価値を持つ。それが人がさらして欲しくないものであったら、相手を傷つける武器になる。

人はだれだって表面を小奇麗に整えて、体裁をよくしている。人に知られたくない秘め事の1つや2つは、人前に晒さず、きちんと人のいないところで処理する。だが、ビデオ撮影サークルの彼らはその暗黙のルールを土足で踏みにじろうとする。「せきらら」という言葉がある。一般的にいい意味で使われるけれど、全てをつまびらかにすることは常に正しい結果を生むとは限らない。今「ヤバい経済学」を読んでいるのだが、「情報の非対称性」とはまた別の話。だが共通点はある。それは、情報の不当な扱われ方には注意しなければならない、ということ。

物語は、シンセミアⅢ・Ⅳに続く。