覚醒、夢、喪失

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

彼女は書いている。ぼくは記憶をたどってみる。「それでは衝突を避けるためには、わたしたちはどうすればいいのだろう?論理的に言えば、それは簡単だ。夢を見ることだ。夢を見つづけること。夢の世界に入って出てこないこと。そこで永遠にいきていくこと」
疑問がひとつある。大きな(原文傍点アリ)疑問だ。どうやったらそこに行けるのだ?
論理的には簡単だ。しかしもちろん具体的には説明することができない。

裏のあらすじには「そんな奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!」とあるけれど、kiaoはこの小説は「喪失の物語」だと思う(と言ったら、村上春樹の小説はすべからく「喪失の物語」だろうというツッコミがくるのかもしれないけれど)。
22歳の春に(「僕」の思い人である)「すみれ」は生まれて初めて恋に落ちた。『相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。さらにつけ加えるなら、女性だった。』。本書には「こちら側」と「あちら側」という表現が登場する。こちら側の代表は「僕」であり、あちら側の代表は「すみれ」である。つけ加えるなら「すみれ」の思い人である「ミュウ」はかつて「あちら側」を望んだが今は「こちら側」の人間であり、「ミュウ」に恋した「すみれ」はそのときから今までの自分からは想像もつかない変化に(精神的にも物理的環境にも)見舞われ、「こちら側」と「あちら側」の間でゆらめく。
では、「こちら側」と「あちら側」というのは一体何なのだろう?言葉にすると、そこに含まれている微妙なニュアンスが消えてしまうような気がするけれど、あえて言ってみれば「あちら側」を「夢」と言うこともできるし、「世界に対する期待」とも言えなくもないと思う。
「すみれ」は『ひとことで言えば、彼女は救いがたいロマンチストであり、頑迷でシニカルで、よく表現して世間知らずだった。いったんしゃべりだすときりなくしゃべっていたが、気の合わない相手とは(つまり世の中を構成する大多数の人とは)ろくに口もきかなかった。煙草を吸いすぎたし、電車に乗るときまって切符をなくした。』というような人間で、人と違うことをある種の誇りに思っていた(むしろそのために思わざるを得なかった!?)思春期から青年期かけて見うけられる自意識の総体といってもいいかもしれない(…ちょっと、表現が乱暴だなぁ)。
大学を辞めて、ひたすら小説を書く(そこにはディシプリンというものは存在していなく、ただ、頭に湧き上がる膨大なイメージを文章上に叩きつけるというもの)という生活を送っていた「すみれ」は、「ミュウ」との出会いをきっかけに、そのときがきたら小説に専念すればいいという条件付きで彼女の仕事を手伝うようになる。着るものも「ミュウ」からもらった立派なスーツを着用し、禁煙をし、彼女の専属でいることが週3日から週5日へ変わり、「ミュウ」とともに仕事上の用件でヨーロッパを巡ることにもなった。そして、その旅先のギリシャのある島で「すみれ」は消息を絶った。
「ミュウ」と出会う前の「すみれ」を青臭いと一蹴してしまうのは簡単だけれど、その部分を含めて彼女を愛している者がいた。一人は「僕」であり、もう一人は(後に分かることだが)「ミュウ」である。「僕」の「すみれ」に対する愛は、性愛を含めたもので、自分にはないものを愛でる感情でもあった。「ミュウ」の「すみれ」に対する愛は、性愛を含めたものでなく、かつて自分に合って失われてしまったモノを「すみれ」のなかに見出していた部分があった。二人は自分にはない(失くしてしまった)モノを、「すみれ」に託していた部分があったはず。が、「すみれ」がそのままの状態でいることの危険を感じていたのも事実だった*1。ゆえに「ミュウ」は自分の手元に「すみれ」を置いた。そして「すみれ」は変わりつつあった、精神的にも物理的環境にも。だが彼女は、そんなかつてあった自分、かつて目指した自分、変革する自分、外部的な刺激によって影響を受けてゆく自分に、とまどいをおぼえないこともなかった。

「まあね」とすみれは珍しく素直に認めた。「それもただ書けないということじゃないのね。いちばんきついのは、文章を書くという行為そのものに、以前みたいにはっきりとした確信を持てないこと。少し前に書いたものを読み返してみても、さっぱり面白くないし、なにを言おうとしてたのか、自分でもポイントがつかめない。まるで脱いだばかりの汚れた靴下が床にべろっと堕ちているのを、遠くから眺めているみたいな、そういうかすかすの感じがするの(以下略)」
(…中略…)
「わたしにはもう小説なんて書けないかもしれない。最近よくそう思うの。わたしはそのへんにうようよしている世間知らずのトンマな女の子たちの一人で、自意識だけが強くて、かなうわけのない夢を追いかけていただけなんだって。わたしはさっさとピアノの蓋を閉めて舞台を降りちゃうべきなのかもね。手遅れにならないうちに」
「ピアノの蓋を閉める?」
「比喩的な意味でよ」

「あちら側」はとてもキラキラしていて*2、希望があり、そして(それゆえにか)傷つきやすく崩れやすい。いくら自分がそこにいることを望もうとしても、「あちら側」のほうがその期待に答えてくれるという保障はどこにもない。「あちら側」への推進力は信じることだが、信じていればそれが保障されるわけではない。「あちら側」にいることが叶わない(と自分で思ってしまった)とき、選択肢は2つある。1つは、「こちら側」に完全に移ること。もう1つは、「こちら側」に足をかけていた自分という存在を断つこと。
その方法は、論理的には簡単だ。しかしもちろん具体的には説明することができない。「すみれ」は具体的には説明することができない「方法」として、「消失」した。
この「具体的には説明することができない「方法」を具体的に(単純に、かつ新たな答えにはならない*3 )実行させたのが「MISSING」の「瑠子」であり、「ヤサシイワタシ」の「弥恵」でもあるのだと思う。

最期の、夢なのか現実なのかはっきりしない状況、じつはkiaoも体験したことがある。…が、それはまた別の話。

*1:すみれが大学を辞めたときに義母が彼女の支援をなんとか夫に取り持った時のエピソードである『もし義母の口ぞえがなければ、すみれはおそらく一文無しで、そして必要な社会的常識と平衡感覚を身につけないまま、この現実といういささかユーモアのセンスを欠いた――もちろん地球は人を笑わせ楽しませるために身を粉にして太陽のまわりを回転しているわけでない――荒野に放り出されていたことだろう。あるいはすみれにとって、それがより好ましいことだったのかもしれないけれど。』がその一例として挙げられる。

*2:ホントか?

*3:別に悪い意味で言っているのではなく、我々にとっても代替案の見つからないがゆえでの帰結として