鉄鼠をとばして読んでしまった。ま、いいか。

文庫版 絡新婦の理 (講談社文庫)

文庫版 絡新婦の理 (講談社文庫)

長い。いや、京極作品が長いのはもちろんわかってたんだけど、1シーンがこんなにも長かったっけと戸惑った。kiaoは集中力がないので、なかなか一読みの区切りがつけられなくて疲れた。
ミステリをミステリたらしめる構造というのか、ある物語を作者が恣意的に組み替えて見せることが、物語を魅力的に見せるということ、その一端を垣間見させてくれる。相変わらず参照される文献の量には圧倒させられるが、発想の転換というか、逆説的な驚きという点は既読作品に比べ少なかったように感じた(ただ単に慣れただけなのか)。それでも、今回の核となる概念(女系的観点と男系的観点、そこに価値観を絡めた話)はうならずにはいられなかった。やはり本を読むことの喜びの一つは、本を読んだあとに現実を見る視点が少し変化することだと思っているし、そういった点においては多少満足。
私たちが歴史というものを振り返ってみる時、その一時代においては唯一つの価値観が存在すると思い込んでしまう。例えばワイドショーで「現在の女子高生の性の乱れ」みたいなことやってても「いやいや、そんなのほんの一部のことでしょうが」と笑い飛ばせるのに、自分の実感(経験)をもてないものに対しては、そこに潜んでいる(可能性のある)複雑性に思いをはせずに、単純化した(思い込みにも似た)概念で一括りにしてしてしまいがちだ。もちろん、すべての物事をそんなに深ーく知ることははっきりいって無理だし、そのために、ものの全体をざっくりとした概念でとらえとくのは決して悪くない。というか、普通そんなもんだ。ただ、そこの背後には複雑性を孕んでいることを承知した上での「ざっくりとした概念」でとらえている、という認識を忘れてはならない、のだろう。

以下は本書にもあった、これまでの作品でも繰り返し用いられているテーゼ。

「繰り返しますが、この世に劣った人間などいないし異常の基準などと云うものもない。犯罪者を異常者と決め付けて一般の理解の範疇から外してしまうような社会学者こそ糾弾されるべきです。法を犯せば罰せらるが、法は社会を支える外的な規範であって、個人の内面に立ち入って尊厳を奪い去り、糾弾するものであってはならない!だから――」


京極堂が行う憑き物落としとは、一般の理解の範疇から外されてしまったような犯罪者(異常者)を、一般の理解の範疇に呼び戻す行為、とも言えるのかもしれない。