生きているうちに、できることは…

刺青の男 (ハヤカワ文庫 NV 111)

刺青の男 (ハヤカワ文庫 NV 111)

おれがあれらの小説を書いたことは、ほんとうに証明(原文傍点部)できるか。できない。ほかの(原文傍点部)作家には証明できるか。つまり証拠があるか。証拠(原文傍点部)としての行為が?ない。絶対ない。タイプを叩いているあいだ中、だれか付きっ切りでその部屋にいなくちゃ駄目だ。それでも、いったん仕事がすめば、証拠は消えて、思い出だけだ。

「日付のない夜と朝」より

短編集。どんな人間にも死は等しく訪れる、…というのは自明の理だが、ではもう一歩踏み込んで。さて、その死が眼前に押し迫った時、はたして人は十分に生きたと納得して、その死を静かに受け入れることができるのだろうか。その問題に一つの答えを提示するのが本書収録作品「万華鏡」。

最初の激動の瞬間、ちょうど大きな缶切りであけられたように、ロケットの横腹がぱっくり裂けた。1ダースもの秋錦がのたうちまわるように、乗員たちは空間に投げ出された。そしてたちまち、暗い海のなかで散りぢりになった。

「万華鏡」より

冒頭の一文から、登場人物たちは漆黒の空間に投げ出される。理不尽にも似た、唐突な絶望。お互いの身体は無限に広がる宇宙空間の彼方へ向かって、少しずつ引き離されてゆく。それぞれは少しずつ孤独へ向かい、少しずつ死に向かう。さっきまで己が身を置いていた「生」は、今ではまるで遠い昔に見た夢のように、追想するものでしかなくなってしまっている。

今、人生の末端に立って、ふりかえってみれば、心残りは一つしかなかった。すなわち、このまま生き続けたいということ。死んでいく人間は、みんなこんなふうに感じるものだろうか。まるで、今まで本当に生きたことがなかったように?人生はこんなにも短く見えるものなのだろうか。息つくひまもなく、すんでしまったように?あわただしい人生、ウソの人生と、誰もが感じるのか。(…中略…)じっくり考える時間はあと数時間しかないのに。

「万華鏡」より

たぶん、どんなに激しい恋愛を成就させた人も、どんなに焦がれていた夢を叶えた人も、どんなに大金を得た人も、どんなに人を平伏させる権力を持った人でも、「死」を目前にした時思うことは大体同じではないだろうか。
「あれ、ホントにもうこれで終わっちゃうの?」
結局最後の最後に残るのは思い出だけだし、その思い出といったらそれは各々の中にしか存在しない。「思い出」とは「済んでしまったこと」の別称。で、それは形を持たないから、実体と呼べるものがないから、それが十全であるか確かめる術がない。

「ほら、みろ。精神的な証明はできないだろう。おれが欲しいのはそれだ。感じられる(原点傍点部)精神的な証明。物理的な証明なんて必要ない。きみが出て行って、持ってくる証明なんて要らない。それは不可能だ。何かを信じるためには、それをいつも肌身はなさず持っていなきゃならん。地球や人間をポケットに入れるわけにはいかないだろう。おれが求めているのは、それなんだ。

「日付のない夜と朝」より

生は全ての出来事を過去に、済んでしまったことに変換し続ける行為。死は、その行為を終えた状態。それらの違いは、変換すべきそれがあるかないかの差でしかない、のか。


お気に入りは「万華鏡」「町」「ゼロ・アワー」「ロケット」。「町」における町の無機的な主観はすごい。「ロケット」の子供に与える夢は、小さいけれど、大きい。