すべては「記述の運動性」による

小説のストラテジー

小説のストラテジー

おもしろい。日ごろなんとなくぼんやり感じていたことを見事に明言化してくれたり、または思ってもいなかったことをずばり指摘され耳が痛い部分もあり、少々だがkiaoが思っていた部分と重なるところもあり、読み応え十分。本書でも参照されている「小説の技巧」はそういえば読み途中で放置していたなぁ。「小説の言葉」はいずれ読もうと思って持っていたが、…まあいずれ。

本書の中の第3章「ジャック・ワージングの困惑 物語にはどのような役割があるのか」も興味深い一節。kiaoは読書する上で思っているのだが、小説は、面白ければ物語の整合性がとれてなくても別段気にしない*1。整合性というとちょっと語弊があるのか。例えば、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でも、上巻を読み終わった時点で「このまま2つの話が交わらないままでもいいかも」と思っていたし、「幽霊たち」でもブラックの正体が、わからないままでもいいんじゃないかと思ったり。要は、読んでいるその瞬間が楽しめれば最高、それは記述の運動を楽しんでいるとも言えるのではないだろうか。記述の運動性には文体と言い換えることもできる(とkiaoは読んだ)。
で、ここでは一般に読書とはそれを主目的として読むものと思われている、「物語」というのがどこまで必要なのかについて言及している。この章を読んで感じたのが、ああ、これは音楽(kiaoが持っている音楽観)にも繋げられるな、ということ。

(引用者・注 物語を物語たらしめる)物語性の高低は必ずしも問題ではなく、展開される記述によって決定される問題だ、と言えるでしょう。
(…中略…)物語が必要なのは、そこから記述を生み出すためです。(…中略…)文から文を生み出し、そうやって組み立てられた段落に段落を繋いで枝を延ばし、葉を茂らせていきます。ただし、無から記述は生まれません。言語が必ず何かを指し示す以上、何も意味しない記述は不可能でしょう。記述を行うには、どうしても、記述対象が必要なのです。

物語は舞台を設定して台詞を汲み上げるべきイメージと語彙を提供し、人物の性格と位置によって語呂が文に組まれる方向を定め、展開によって語られるべき事象を連鎖的に発生させます。

物語−記述の関係。物語が記述を支配しているのはなく、時として(魅力的な)記述の暴走は、その結果として物語を変えてしまうことがある、と述べている(マンガ家がよく言う「キャラの一人あるき」という現象と通じるものがあるだろう)。で、この形をkiaoが勝手に詳しくしてみる。
物語−エピソード−記述
これは音楽における「曲−メロディ−(楽器の)トーン」に通じるものがあるのではないかと。kiaoは音楽において*2プレイヤ主義なもんで、その人が持つトーンが音楽の最も重要な要素だと思っている。だからそのトーンを持つ人間だからこそ、創れる曲があると思っているし(ザック・ワイルドが「WHERE WERE YOU」を演奏してもこけるし、エリック・ジョンソンのトーンから「TEENAGE FROM MARS」は(かえって)創れないだろう)。ほら、ミュージシャンが新しい楽器を手に入れたら、その音に触発されて1曲描きあげてしまったとかあるでしょ。えーとだから、そのトーンを持つプレイヤがメロディを作り出し、そのメロディが連鎖的に紡がれ、曲が構成されるのと同様に、その記述(おそらく文体)をもつ作者がエピソードを作り出し、そのエピソードが連鎖的に紡がれ、物語が構成されているのではないかと*3
例えばミステリなんて、ホントの大枠で言えば「事件が起きる(人が死ぬ)→(探偵役が)手がかりを得る→犯人を暴く→大団円」という形で、それをもうちょっと細かいレベルでの物語りの違いでで、エピソードレベルの違いで、記述の違いで固有性を持つ。これはポップスが「Aメロ→Bメロ→サビ」という形を持って、もうちょっと細かいレベルでの曲の違いで、メロディの違いで、(ここでは広い意味での)トーンの違いで固有性を持つのと同様のケースなのではないかと思う(またどちらも、記述−トーンよりも、物語−曲レベルで判断され(ているように思われ)がちなのも興味深い)。

とりあえず、思いついたことをつらつらと。よけいややこしくなった感が…。

*1:読後感に悪影響を及ぼすほどの整合性のとれなさでは、困るけれど

*2:ギタリストがほとんどだが

*3:これは小説を、構成する要素から見た話で、創作という点では創りたい物語−曲があって、トップダウン式に作成されるということも忘れてはいないけれど、ちょっ横に置いておく。