そういえば、現代の大人は帽子をかぶらないね(と追記)
- 作者: ディクスン・カー,田中西二郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1960/09
- メディア: 文庫
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とはいえ、事件の真相が明らかにされる部分に入ってしまえば、あとは引き込まれるように読んでしまう。それまでは、ちょっと我慢しながら読んでいる。文章自体に魅力があるわけではないんで。
だって打ち明けた話、クイズ「何でこの人はサイズの合っていないシルクハットをかぶらされて、矢でさされて死んでいるのでしょうか?」で、ヒントその1、ヒントその2…と手がかりを増やしてゆくだけなんだもの(いや、それが本格なんだって)。
それらを自分でも吟味していって、だどりついた結論が事件の真相にどれだけ肉薄できるかを挑むように読めば(おそらく正当な)楽しみ方ができるのだろうけれど、kioaは普通の小説のように読み進めていっているので、それがよくないのかもな…というのももう十分わかっている。が、毎日少しずつしか読ま(め)ないのだから(時間的にも精神的にも)、そこはもうどうしようもない。
それともう一つ、その読み方が出来るようになるまでは、もっとミステリを読んでからでないと…というのもある。そもそも自分の中に、パターンの蓄積がないと、断片的なアイテムから予想なんてできないしね(逆に言えば、そういう読み方ができるようになっていたら、ある程度ミステリを読んだという指標になるのかな)。だから、基本的には探偵役に、この事件がどうおもしろいのかという解釈をおまかせしてしまっている状態ではある。こういう読み方は、東野圭吾的には堕落とよぶんでしょ!?
思えば、これ事件が発生してから解決までほぼ1日しかかかっていないんだね。なんてスピーディな解決。そんなトリックが!!…とかじゃなくて、そーいうことしていたのかぁと腑に落ちる感じ。
※追記
なんでクイズに見えるか、わかった。解決編にゆくまでにフェル博士の思考が見えないからだ。探偵小説で探偵役を天才型に見せようとした場合、一を知って十を知るタイプが一つの典型だ。そこでは、解決編という(思考の)結果は見えても、(思考がそこにいたるまでの)道筋が読者には見えない。解決編までひたすら証言と描写だから、それらがドライだと読むのに少し骨が折れる。
思考は個々人で違うから自分以外の人が書けばそれなりに興味深いが、証言と描写は読者にフェアであろうとすればするほど客観性を保持し、結果オリジナリティから離れていってしまう。
要するに、フェアな描写は情報に過ぎないので、それ以上を求めようとすると退屈になってしまうということか。