教わるよりも、学ぶこと。

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

飛ぶ教室 (光文社古典新訳文庫)

小学校のころに、道徳の授業というのがあった。内容なんて今となっては思い出すことさえ出来ない。だが、あったことだけは覚えている。道徳の授業と言うくらいなのだから、他人に迷惑を与えてはいけません、人に親切にしましょう、みたいなことをやっていたのだろう。要するに、社会にとって人があるべき姿を子どもに教えこむことをしていたのだ。
でも大人になったらわかる。この社会にはそういった子供の頃に教えられた規範を守れていない、守ろうとも思わない人が遍く存在することを。もしかしたら、そんな規範があったことすら忘れてしまっているのかもしれない。
だったら、何でそんなことを子どものころに教えたりするのだろう。どうせ忘れてしまうようなことなら、どうせ覚えていなくたって生活を営んでいくのに特に支障がないようものなら、教えてもしょうがないじゃないか。
しかし、考えてみたらそんな道徳の授業がなくたって、己の中に規範を持って生きている人たちだって存在するではないか。モンゴルの遊牧民が道徳の授業を受けていないからって、道徳心がない?そんな馬鹿な。
道徳とは、教えてもらうものではなくて、学ぶものなのだ。何から学ぶのかといえば、それは先人、大人たちしかない。

もう何度もみんなは、こっそり禁煙さんのところに相談にいった。舎監のベーク先生に相談しにくい場合には、とくに。ベーク先生のあだ名は、正義さん。正しい人だ。だからこそ、みんなに尊敬されていた。
しかし、正しいことと正しくないことの区別がむずかしい場合にこそ、相談が必要になることがある。そんなとき、みんなは正義さんのところへは行かず、大急ぎで垣根をよじのぼって、禁煙さんに相談するのだった。

このキルヒベルクの寄宿学校を舞台にした物語には、二人の代表的な大人が存在する。一人は正義さんと呼ばれる舎監の先生、もう一人は禁煙さんと呼ばれる、お払い箱となった禁煙車両を買い取って寄宿舎のそばの市民菜園に暮らしている、子どもたちのよき相談相手だ。
二人はそのあり方こそ違えども、ともに子どもから好かれていた。それは常に子どもたちとフェアに接していて、決して過干渉せず、だが必要なときには適切な手助けをしてあげたからだ。
彼らはちゃんと覚えている。彼らもまたかつては子どもだったことを。だから彼らが子どもたちを諭す時も、大人の立場からの意見ではない。かつて子どもだった「僕ら」からの意見なのだ。

正義さんが立ち上がった。その顔はやさしくて、真剣でもあった。5人の少年をじいっと見つめていた。「この少年が誰か、わかったよね?」
「もちろんです」と、マルティンが小さな声で言った。「ヨハン・ベーク先生です」
正義さんがうなずいた。「じゃ、退散しろ、山賊ども」
みんな立ち上がり、うやうやしくお辞儀して、そっと部屋から出ていった。美男のテオドールはうつむいたまま、横をすり抜けていった。

この物語に出てくる子どもたちは、決して忘れることはないだろう。こんな大人たちがいたことを。そして彼らが大人になったとき、今度は彼らが新しい子どもたちにとっての「正義さん」「禁煙さん」になるのかもしれない。その時になって、改めてわかることになるのではないか。かつて正義さんが、禁煙さんがどんな思いをもって彼らに接していたのか、何を託そうとしていたのかが。

「大切なことを忘れないために」と、禁煙さんが言った。「できることなら消えてほしくないこの時に、お願いしておく。若いときのことを忘れるな、と。きみたちはまだ子どもだから、お節介に思えるだろう。だがお節介じゃないんだよ。信じてほしい。私たちは年齢を重ねたが、若いままだ。私たちには、わかってるんだ。ふたりとも」