代わりはいても、私は死ぬもの…

スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)

スクールアタック・シンドローム (新潮文庫)

(…前略…)「判った。決めた」
「何」
「私、あの子と友達になる」
「ええ?誰と」
「杣里亜と。決まってるでしょ」
「決まってねえ〜。ちょっと待てや。何で?」
「何でって…別に杣里亜のこと嫌いじゃないんだし、いいじゃん。昨日のこと謝るついでに、仲直りっつーか、改めましてって感じで」
「嘘ぉ〜そんな風にいけるかあ?おめえ喧嘩したんじゃなくてぶち殺したんやぞ?」
「別にぶち殺してないよ。ちょっと殺しちゃっただけだよ」


舞城王太郎ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート(「スクールアタック・シンドローム」収録)」

すごい!!あいかわらずぶっ飛ばしている。すべての作品が脂のりまくっている「みんな元気。」の収録作品群の中で、書き下ろしの今作はどうなるのかと思ったら*1、これがなかなかどうして、勝るとも劣らじのこの出来。一気に読んでしまった。これだけに400円を払う価値は十分にある。
今回も、舞城のお得意「エロ・グロ・バイオレンス」3拍子はすべてそろってる。読んでゆくと頭の中が「?」になって、「??」になり、ある瞬間「!」となったあの衝撃、それとともに知ってしまった悲しみ。この「!」になる瞬間、主人公と読者は完全にシンクロする。
ちなみにヒロイン(?)の杣里亜は<ソマリア>と読む。相変わらずふざけたネーミング(ほめ言葉)だが、これは杣里亜の名をつけた親がふざけた奴だったので、しかたのないこと。

以下、ネタバレあり。











繰り返される生の生成というモチーフは以前に舞城作品に出てきているので、すぐに思いつく。「私たちは愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる(「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか)」収録)」。
こちらでは、小説中の登場キャラクターたちは、いわば作者の分身であり、異なるキャラがいくつも生み出されるのは作者の分身であることに変わりがない、同工異曲だということを示している。それは作者が伝えたいことを読者に届けるための形の違いであり、いわば作者という主題による変奏曲なのだ。
ただ、人は自分のことについてさえ全てを知ることができないように(むしろ自分自身が一番分からないのかもしれない)、各々のキャラクターについても全てを知ることができない、たとえそれを生み出した作者であっても。だから、キャラクター達は作者の分身であると同時に、他人であり、作者の考えの裏を感じ取り、ときに作者を愛し、ときに憎もうとしさえする。
で、「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」。こちらはそういったメタ的な要素はもってなく、あくまで小説内の現実として、何度も殺されて、何度も甦るキャラクターが登場する。それが冒頭の会話文にも出てきた杣里亜だ。

「ああいう子って私とかすぐ判るんだよね。穴が空いてんの。のこんって感じで、肩先のあたりに。暗い穴。(…中略…)私とかはそういう穴にゴミを放るようなものなんだよね。(…以下略…)」

主人公の徳永英典と付き合っている野崎智春は、伊藤杣里亜のことをそう言う。杣里亜は家庭的環境に恵まれず(それは特に、家族の中のある1人に変態的虐待を受けていることによる)、そのため自分を護るために逆説的だけど、とことん酷い目に遭うように他人にしむけた。<淳一は変態すぎるから、行動が派手すぎるから、体面を慮って家族は淳一を自分から遠ざけてくれる…>。
その態度は他人に対しても向けられ、畏れられ、福井の田舎の片隅で完全に孤立し、平穏な学校生活を送っていた。
ある日智春は、いつものように<杣里亜を塵掃除>していたのだが、なぜだがいきおいづいて、杣里亜の首を折って殺してしまう。
智春は言う。

「誰が?絶対知らないよ。あの子友達いないし家族も最悪っぽいし、絶対誰も知らないよ」
「誰も知らんかったにせよ、絶対に厚みはあったはずやって。人間なんやから」
「誰にも知られていない厚みなんて、意味無くない?人が生きる意義なんて、周りの他の人に何を与えられるかだけなのに、あの子全然何にも与えずに、別に取ってもいかずに、ただ何となく流れで死んじゃってない?」

だがやがて、智春は杣里亜を殴るだけにとどめず殺してしまったことを後悔し<あの子の死に方に不満あったし。薄っぺらすぎるんだよね>、杣里亜はなぜか搬送された先の病院から消えて学校の徳永の机の上で蘇って、今度は冒頭のように智春は杣里亜と友達になろうとして、杣里亜は友達になって、もう叔父さんに凌辱されるのはいや〜〜うわ〜〜んと泣いてしまう。
で、英典は智春に頼まれ杣里亜の家へ出向く。そこであることがおこり、また智春が死んでしまうことを知る。そのあとに智春が復活することを同時に知りながら…。


死はなぜ悲しいのか。それはたった1回しかない「生」が失われてしまうからだと言う。
だが、ただでさえ<薄っぺらすぎる>杣里亜の「生」は、死の次にはまた蘇ることが判明してから、たった1回しかないという希少性がなくなり、さらに薄っぺらくなる。しかし英典は、次にまた蘇ることが分かっている杣里亜がこれから殺されてしまうことを、それを回避させることができなかったことを恨事し、泣く。

死は、死そのものが悲しい……。