資本主義でもなく、社会主義でもないもの

正気と狂気の間―社会・政治論

正気と狂気の間―社会・政治論

警察が暴く殺人事件とはどんな種のものかみてみるといいい。全然目立たない並の男が、何万とある安アパートのどこかひどい場所で、しかも奥まった台所の流しで、血だらけの手を洗ったとする。その動作は二分もかからない。だが現代の警察は、それを発見して取り押さえる力を持っている。ところが彼らは、全経済界をひっくり返すような会合とか情報のやり取りなどは、決して見つけることができないのだ。おかしなことである。誰も噂にも聞いたことのない男が、誰にも知られぬようあらゆる注意を払ってあることをし、誰も知らない場所に行くとき、警察はちゃんとその場所を突き止め、男を追い詰めることがでいるのである。しかし同じ警察は、誰でも知っている男が、これまた誰にも名の知れた男と、ある事を企んで連絡し合っているかどうかを見破ることができないのである。そのある事というのも、男がこれまで隠れもなく意欲をみせてきたことにほかならず、ほとんどすべての者がその事実を知っているのだから、ますます奇妙である。

物語が記述を生みだすための装置ならば、思想だってそうなりえるのではないか?そんな考えを、本書を読んでいて思った。まさにそのとおりだった。
チェスタトン節が炸裂している!! 小説はある種のエンターテイメント性を意識しているから、こういったエッセイなどのほうがよりチェスタトンの素にちかいものがでているのかもしれない。小説を読んでいるときはわりとクールな印象をうけていたのだが、なかなかどうして、本書を読むと彼の熱い部分が随所に垣間見える。
なので、チェスタトンの思想を享受するというよりも、チェスタトンの語りを堪能するというほうが楽しみ方としては正しい(!?)気がする。
……というふうに思えるのも、チェスタトンのファンとして本書を読んでいるからでしょう。彼の記述の魅力を知っているから。逆に小説を読まずにこういったエッセイから読んだとしたら、評価はどう転んでいたのだろう?
同じ本であっても、目的の持ち方によって感じ方が変わる。これが所謂「テクスト」の持つ力の一側面なのかも。
この本はだいぶ前に読んだのだが、上記にもある「チェスタトン節」を堪能したいために、本書に限らず読み返したいものが多々ある……。だがまだ未読の本もあるし、他に読みたいものもたくさんあるし、……時間が圧倒的に足りないなぁ。


蛇足。
人はなぜ過去に学ぶのか。その一つの答えとなるものが、本書に記されている。

子供、とりわけまだ生まれない子供と遊ぶのは楽しい。未来は誰もが自分の名を好きなだけ大きく書ける空白の壁である。ところが過去は、すでに一面、プラトン、イザヤ、シェイクスピアミケランジェロ、ナポレオンのような名が、判読もできぬほど書きなぐられているのだ。未来ならば自分の器量に合わせて小さくすることもできるが、過去は、人間そのものの幅とケタはずれを要求するのである。この現代人の態度は結果的に、昔からあった理想に挑む勇気がない故に新しい理想をひねり出すという方向に行くのである。人々は振り替えることがこわいから、熱っぽく未来に期待をかけるのだ。
ところで歴史上、復古でない革命というのは一つもなかった。
(…中略…)
これまでの中で最も無秩序な運動と多くの人が言いそうなあの運動、フランス革命は、今私の言う意味で最も保守的である。
(…中略…)
人は果実が欲しければその木をつねに墓地に植えなければならないのである。死者の間にしか生は見つからないのだ。人間は、足は前へ踏み出しながら、顔はうしろを向いている奇形の怪物である。未来を豊かに大きなものにするためには、つねに過去を頭の中に置いておくのが必要であって、未来だけを切り離して考えようとする精神は愚鈍はへ向かって収縮してしまう。その極地点をある人は涅槃と呼ぶ。