線は、コード化のためのツール

線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

線が顔になるとき―バンドデシネとグラフィックアート

……もう……やめちゃってもいい…かなァ……人生

 安心して下さい。これはkiaoの心の声ではありません(笑) だけど、上記テキストより受けた印象を憶えておいていただくと、この後で言いたかったことがおわかりいただけると思います(もう、ピンと来ている方もいらっしゃるかもしれませんが)。

(…中略…)投錨(アンクラージュ)の機能〔映像の意味を言語で固定すること〕は、可逆的であるということ、より正確にいうと言葉とイメージの間の限定は、相互的であること(…中略…)単独ならば自然に読みとれる表情だっとしても、そこに言葉を加えるだけで読解が特定化され、修正されることすらありうるからである。(…中略…)「表情の豊かさは、意味作用の土台となるが、それはまた意味作用によって絶えず抑圧されている。」

(P103)


 ここで一つの画像をご覧いただきたいと思います。



 一つの絵から読みとれるイメージは人それぞれですが、それは全くの自由ではなく、ある特定の方向性を持つはずです(それはカルチュラル・スタディーズにおけるメディアの受容者が、比較的自立的(完全に自立的にではないのがポイント)にメディアから発せられるメッセージのデコードを行っているのと同様に)。最大公約的に言えば*1、この絵より発せられるイメージは「貧しい」「汚れている」「それでも笑っている」「けなげ」といったところでしょうか。


 では、実際にこの絵の吹き出しに当てられている台詞を挿入してみましょう。


*2
 この台詞と絵が融合した瞬間に、台詞は絵のイメージに影響を与え、また、絵も台詞のイメージに影響を与えています。この相互的な関係。
 マンガは絵を主体としたメディアでありますが、そこに与するテキストによって絶えずその意味を再構築してゆくもの、とでも言えるのでしょうか。船戸明里が、テキストの重要性を語っていたことを思い出しました。


 また、以下の記述も読んでいてハッとしました。

顔の次にもっとも雄弁な身体の部位は、手である。(…中略…)手は単に役に立つのではなく饒舌な器官でもある。

(P113)

これは、ちょうど同時に読んでいた『3月のライオン』にも、まさにそれを象徴するシーンがあったので驚きました。
3月のライオン』の114Pと115P。114Pにおいての香子の妖しく柔らかい手と、115Pにおける骨張って力強い後藤の手。特にこの後藤の手は、ページをめくると現れる116Pの後藤の顔が映し出されるよりも前に、この後藤という人物がどういうものなのかを雄弁に語っています。
 

 

 

 
 
 本書がなぜこの題名を選んだか。それは、以下の引用文が端的に示しているのではないでしょうか。

 マンガは、他のグラフィック・アートよりも顔の表情を使いこなすことが求められる。なぜならマンガ家は、いかなる状況であっても、あらゆる角度から飽くことなく同じ顔を描きつづけなければならないからだ。
(P11)

 だが、生命こそ、顔に浮かびあがり、絶えざる変化を通じて凝縮されて現れでるものである。生命や表情や情念は、顔とその内部との猥褻ともいえるような関係、肉体そのものを忘れさせる。その結果、テヴォーは以下のような結論をくだした。「思考がその表現の土台として顔を選んだという事実そのものが、裸の部分を悪魔払いしたことを示している。」

(P91-92)

 この本を読んでいて、作画ホセ・ムニョス 原作カルロス・サンパヨの一連の作品に、非常に興味をそそられました。


あと、このエントリで使用した画像は、拾いものなので出典不明です(わりと有名ではあるようなのですが)。ご存じの方がいましたら(かつ、教えてあげてもいいという殊勝な心の持ち主の方)、ぜひとも詳細を。あ、実はこの台詞自体がコラ?

*1:もちろん、それはkiaoが想像する「最大公約的」であることは承知の上

*2:ちなみに、これをさらにコード化(AA化)した場合→「人生オワタ\(^o^)/」