人生。それ自体がタチの悪い冗談だとでも言うように……。

暗色コメディ (文春文庫)

暗色コメディ (文春文庫)

人生は悪しき冗談なり。
(西東詩編「観察の書」から)
(P-159)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ・著 高橋健二・訳 『ゲーテ格言集』

 妄想と現実。主観の上でそれを分別するためには、何が必要なのでしょうか。
 他人が人のそれを判断するには、その人の行動・言動が彼を取り巻く環境的文脈に照らし合わせて、妥当であるかどうかがその区別を行うための基準となるのでしょう。
 人は認識の上に立つ生き物だと言います。認識の上では、それが脳に同じ刺激・作用を及ぼすのであれば、妄想とか現実とかいった区別は意味をなしません。他人にそれを妥当だと認めてもらえれば、それに「現実」というラベルが貼られるだけです。

 だいいちあの女がほんとうに由紀子なら、但馬英三が出演している芝居を見たいなどと言い出すはずがない。何年か前、由紀子がテレビを見ながらこういう野獣みたいな男臭い俳優は好きではないと言ったのを高橋は憶えていた。
 言葉は覚えている。だが顔は忘れてしまった。
(P-142)

 京極夏彦でしたら、このモチーフを衒学的に演出するのでしょう。しかし、連城三紀彦のそれは、ただただ静謐に、人が狂い堕ちてゆく様を描いています。
 人の希望。それはある事件が解決をしたからといって、それに伴い見いだされるものではありません。人はただ、心の底に重く積もってゆくものを抱えながら、迎える日々をやり過ごすだけなのかもしれません。


 人生。それ自体がタチの悪い冗談だとでも言うように……。




蛇足
少し長文になりますが、抜粋します。

 由紀子と結婚する半年ほど前であった。高橋はその女と関係をもった。別にその女が好きだったからではない。その頃高橋はまだ学生だった。医学部というバラ色の将来を保証された集団に属し、楽しい日々を送っていた。
 ある日大学の実習で患者を診察した際、ちょっとしたミスをした。小さなミスで教授から格別叱責されたわけでもない。だがその些細なミスが好調に進んでいた人生の全部を逆転させ、否定してしまう気がした。俺は医師にはなれない――暗鬱な日々が続き、無性に空しくなり、ある日喫茶店でぼんやり一人で座っていた女に、顔も見ずに声をかけた。
 体は悪くなかった。だがその女は醜く、退屈で、下宿の一室で女の体から体を離した瞬間に後悔していた。その後も半年交際したが、女は醜悪な化を絶えず彼の肩に貼りつけていた。
(P-208)

 見て下さい。この<顔も見ずに声をかけた。>から<体は悪くなかった。>への超絶アクロバティックを(笑)*1 平成も20年たった私たちの目から見れば、その展開の急さに苦笑してしまうところですが、これは昭和の遺産で絶滅危惧種として保護されている「行きずりの女」というものです。これは同じく保護されている「演歌的」というものと親和性を有しています。
 ただ、この小説自体が昭和に発行されたものなので、それを指摘するというのも野暮という意見があっても当然のことでしょう。しかし、時代に当然のものとして認識されていたものが、それを別の時代の人間が読むことによって違う焦点の当て方を持つことができる、というのも小説の醍醐味の一つと言うことができるではないでしょうか。*2

*1:登場人物が、生真面目な人間であることを考慮すればなおさらのこと

*2:もちろん、半分はジョークです。