再構築される言語

リズム・サイエンス

リズム・サイエンス

読むという行為は言わば、自分の言語体系に異なる言語体系をぶつけるという行為です。(…中略…)更に、慎重な読み手は、この異質な言語の背後に、自分とは必ずしも一致しない文脈を見、そこから来る異質な使用を感知することになる。思いも寄らない語の連鎖的な発生、というようなものがそれです。どうも自分とは全く異なる関係において、ある語を使用しているらしい、ということが判ってくるのです。
 読む、とは、この異質な言語使用と折り合いを付けることでもあります。
(P-111)
佐藤亜紀 『小説のストラテジー』

 DJ スプーキー・ザット・サブリミナル・キッドことポール・D・ミラーの著書初邦訳!! ……らしいのですが、kiaoは前者・後者ともに知りませんでした。ただ、本書の中をざっと眺めた時に、「これはおもしろそうだ」と感じたので、購入しました。
 言語によるリズム・ボックス、ビートが奏でる記述の波。そういった印象を受けました。
 ただ、自分がこれまでに経験したことのないような言語の使用(選択)をしているので、いくつかの本を読んだ後に、再び本書を読めば、kiaoの言語がまた再構築され、アップデートされるような気がしました。


<個人的に>
 以下は本書に直接は関係ないのかもしれませんが、考えたことです。

 「創造は無意識の引用である」、という考えは納得できるのですが、それが転じて「引用もまた創造である」となるのは「……」という気がしています。ブリコラージュがうんぬん、ということもあるのでしょうが、問題は「意識的・無意識」という部分だと思います。
 DJというものに関して、DJするという行為に関しては創造性があると言えるのでしょうが、その引用のみで作成されたものが創造的なものであるのかと言えば、……どうなんでしょうか。いや、あるのでしょう。ただ、kiaoがDJというものに対しての理解が足りないだけなのでしょう。
 引用は、オリジナルに対しての敬意が前提にある行為だと思います*1。しかし、ことDJにおいては、DJするために「レコードを掘る」という作業が行われています。もともとツールとして使用するために音楽を発掘するのであって、感銘よりも使用という目的が前に発生しています。そういった部分に、DJに対しての非理解性が発生しているのだと思います。
 
 とは言ったものの、実はそれほど引用と創造についてやっきになっているわけではありません(笑) ただ、ミックスされた作品それ自体では、kiaoにとってはあまりおもしろいと感じられないだけなのです。
 一言で言えば、複数のトラックをミックスするためにオリジナルの音源のEQがイジられてしまっている、という部分にその原因があります。

 (…前略…)DJはこの三つ(引用者注:一つのトラックにおけるハイ、ミドル、ローのイコライザー)、さらに再生中の音源に対して次にミックスしようとしている音源のそれを入れれば、都合六つのイコライザーのつまみでミックスされる音源は多元決定されるので、DJによって味わいもつなげ方も変わって聴こえる。 
(P-158) (上野俊哉による訳者解説部)

 オリジナルの音源のEQは、ただ単に決定されているのではなく、その音源が最も心地よく響くよう考慮され設定されています。DJが複数のトラックを違和感なく融合させるために、オリジナルの音源が持っていたEQは変更され、そのためそのEQが引き出していたオリジナルの音源の魅力を減少させている、という部分はたしかに存在しているはずです。
 オリジナルの音源の魅力を減少させる代わりに、複数のトラックが違和感なく融合される。その瞬間。それこそがDJという行為の骨頂なのではないでしょうか。だとすれば、その行為が行われる現場がダンスフロアである、ということになります。行為の現場に居合わせる。DJとオーディエンスの共犯関係。
 その共犯関係が存在しない「ミックス済みのCD」というものの価値が、kiaoにはよく分からないのです(本書に付属されているCD(C-Sideと銘打たれているモノ)も、その一つです)。

*1:批評のための引用という場合もあるのでしょうが、この話においてはベクトルの違うものなので、ここでは置いておきます