準備された死などない

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

「俺は入院してよーく判った。ふたつ解ったよ。ひとつは、人は必ず死ぬ。それと、死ぬときのシチュエーションは自分では決められない。っちゅうことだ。よく言うだろ? 死ぬ瞬間をなるべく美しいものにするため、悔いの無いように一生懸命生きるとかなんとか。あんなん超ウソだぜ。人はいきなり死ぬんだ。隣の病室のガンのおっさんとか、交通事故で運ばれてきたおばさんとかな、彼らがあんな瞬間の為に一生懸命仕事や子育てをしてきたとは俺は思えないね」
(P-47)
菊地成孔 『スペインの宇宙食』

 人は生きているときも、死ぬ瞬間ですらも、理不尽な目に遭わないことはないのでしょう。「そういうものだ」と、トラルファマドール星人なら言うのかもしれませんが、私は地球人なのでやっぱり言わないのです。
 あきらめが悪いのかもしれません。が、おかしいと思うことには、きちんと異議申し立てがしたいのです。
 「人生に起こる全てのことに意味がある」と言っている人がいます。私はその言葉が大嫌いです。
 人生には、何の意味もなく、残酷にも、不幸な事が起こる場合があります。上記の言葉を吐く人に聴きたいものです。ある男がいたとして、彼に対し「全く見ず知らずの人間によって、自分の目の前で家族を陵辱され、惨殺され、その死体を踏みにじられ、そして犯行者はその場で自殺した」という出来事が起こった場合、これらがいったい彼に何の意味をなすのでしょう?
 世の中には理不尽なことが確かに存在して、自分とは関係ないのかもしれないけれど*1、その害を確かに被っているという人がどこかには存在するはずだという、哀しみに対しての、(見えない)他人に対しての、想像力が、生きるということにとって大事なものなのではないでしょうか。
 生きていく限りは、必ずどこかで叫びたくなるような、うんざりするほどの、嫌悪を催すめに出会ってしまうはずです。何かに抗うのには体力を消耗します。いや、むしろ気力のほうが、かもしれません。しかし、そのうんざりするような「それ」に、吠えることを止めてはいけないのではないでしょうか。
 ブコウスキー。老境にさしかかった時でさえも、彼は抗うことを止めたりしなかったはずです。それが、この本を読んだ私の感想です。

生きていれば、誰もがさまざまな罠にはまって、身を引き裂かれる思いをする。そこから逃れられる者は一人としていない。罠と共に暮らす者すらいる始末だ。望ましいのは、罠が罠だということに気づくことだ。自分が罠にはまっているのに、それに気づかないでいるのだとしたら、その人間はもうおしまいだ。(…中略…)作家たちの中には、過去に自分の読者を喜ばせたものと同じものを書きたがる者もいる。それでそいつらもおしまいになってしまう。ほとんどの作家にとって想像力に満ち溢れた期間は短い。彼らは称賛の言葉に耳を傾け、それを信じてしまう。書かれたものに最後の判断を下すのは、たった一人しかいない。それは作家自身だ。作家が評論家や編集者、出版者や読者の言うがままになったときは、もう一巻の終わりだ。それに、言うまでもないことだが、作家が名声や富に振り回されるようになった時は、糞と一緒に川を流れていってもらうしかない。
(P-41)

*1:それにしても、それがいつまで関係ないのかも保証されるものではありませんが。