おれのなかのジム・トンプソン
- 作者: ジム・トンプスン,三川基好
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2005/05/01
- メディア: 文庫
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「ルー」――彼女にはわかっていなかった。「エルマーに手を出しちゃだめよ! そんなことしちゃだめ、ハニー。そんなことしたら必ずつかまって、刑務所に入れられちゃう――ああ、ハニー、そんな考えは捨ててちょうだい!」
「つかまりゃしないよ」おれは言った。「おれを疑うことすらしない。エルマーはいつものように酔っぱらっていたんだと思われる。酔っぱらってきみと喧嘩になって、ふたりとも死んだのだと思われる」
まだ彼女はわからなかった。彼女は笑った。ちょっと顔をしかめながらだったが。「でも、ルー――それじゃ辻褄が合わないじゃない。わたしが死んじゃったら、どうして(引用者注:二週間後に私と町を出て行くということが)できるのかしら――」
「大丈夫」おれは言い、彼女を平手打ちした。それでも彼女にはわからなかった。
顔に手を当て、ゆっくりとこすった。「い、今はやめたほうがいいわ、ルー。私は出かけなければならないから――」
「きみはどこへも行かないんだよ、ベイビー」おれは言い、また彼女を殴った。
そしてようやく彼女にもわかった。
(p.71)
自分のフェイバリットな作家は誰かと言ったときに、そのフェイバリットであるというのはどういう事なのかということの(単純にして明快な)条件とは、ずばり”読んでいるその瞬間に快楽(悦楽)を得ることができる”というものです(個人的には)。
そういった意味では、サン・テグジュペリもそうですし、チェスタトンもそう、舞城王太郎もそうです。そしてこのジム・トンプソンもその中の一人です。
とは言いつつも、これでまだ3冊目。……いや、冊数は関係ないと思います。最初に読んだ『失われた男』の時点で、「トンプソンについて行こう!!」と思いましたから。
暴力的な小説です。しかし、下品であるとは言えないでしょう。フロイトがセクシャリティを単純・明瞭にセックスと結びつける粗野な精神分析家を批判したように、暴力的である=下品であるという図式には陥らないはずです*1。
この作品も辺鄙な片田舎を舞台にしていますが、このことはかえって、大きな物語を喪失し、大都市から幻想が消え去ってしまった現代と妙な親和性を持つような気がします。
また、なんと言ってもこの作品においてもそうであるように、ジム・トンプソンの作品の主人公の魅力は、悪党のそれを備えているからでしょう。
悪と悪党の魅力とは、ショートカット(短絡)の魅力であると。
(…中略…)
世間でいわれる法律とか禁忌は、このマラソンの定められたコースと距離に当たり、それを侵すショートカットが、殺人、強盗、傷害、強姦、近親相姦、変態などの犯罪や侵犯に相当する。(…中略…)
というのは、たいていのショートカッターは、己の弱さや愚かさからショートカットに走るからだ。つまり、体力的に、気力的に「負けて」、より楽な方法と言うことでショートカットを選ぶのだ。
(…中略…)
ところが、時として、ごく少数ながら、己の明確な意志に基づいてショートカットを行う者がいる。確信したショートカッターである。
(…中略…)
弱さからのショートカッターについては軽蔑と嫌悪しか抱きえないが、強さに基づくショートカッターには、まるでヒーローに対するのと同じようなカッコよさを感じるのである。
これが、いわゆる悪と悪党の魅力というものである。*2
(P.P.8-11)
鹿島茂 『悪党(ピカロ)が行く ピカレスク文学を読む』
今や、夜神月が少年誌の主人公になる世の中ですからね。かわいい力こそが正義。
間違った正義(道義に反した力)はいつか滅せられなければならない。しかしそれは悪役を倒すことではなく、間違った主人公が倒されることによってしか、そのテーゼの示し方としてリアリティを獲得できない。「それが時代(by Yoshi)」……あれ!?