一旦言ってしまうと、以前から熟考しての結論のような気がした。*1

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

(…前略)かつてウラジミール・ナボコフは「二度読む読者こそ良い読者である」と言いましたが、それは、作品の諸要素やその相互の関係を把握した上で読まなければ良い読解はできない、という意味です。ただし、ナボコフはこの件に関しては随分と親切だったと言わなければなりません。私としては、初見での完璧な演奏を期待したいところです。というより、初見で構造を把握して読んでみせるという自信(加えて、失敗するかもしれないというスリル)もないとしたら、最初の読解は全くの空振りになります。その作品が傑作であるとしたら(つまり、最高に充実した「読解」を味わわせてくれるものだとしたら)、一回目が勿体ない。屑だとしたら、二度読んで屑の所以を確認する値打ちはありません。
(P.P.40-41)

佐藤亜紀 『小説のストラテジー』

 すみません!! 二度読ませてもらいました。(か、空振りですか!? )


 とは言え、当作品を一度目に読んだときと二度目に読んだときでは、異なった立ち位置で物語を享受できるという喜びを得ることができましたよ。
 本編は、一つのからだに二つの精神を有するメルヒオール(またはバルタザール)の回想録です。読者としては、一回目は語り手である彼らから、彼らの話を聞くことによる追体験(この時点では読者である私たちは彼らにおこった出来事を何も知らないので、彼らの人生を擬似的に体験してゆくことになる)、二回目は彼らがかつて体験したことについて、どのような構成でどんな語り口をもって(未読である)読者に伝えようとしていたのか、という傍観者の立場として(バルタザールがメルヒオールの回想を聞くように)。
 
 
 そして、本書は上記した様に回想録の形式を採用しています。

(…前略)回想録という虚構においては、声は強い単声性を帯びます。声にぶれがなく、分裂もしないこと――即ち、人格にもぶれがなく、分裂もしないことを、内容が真であることの担保にする形式だからです(後略…)
(P.194)

佐藤亜紀 『小説のストラテジー』

 しかし(メインの)語り手であるメルヒオールは、その語っているときには常にバルタザールの存在を意識しています(蛇足:実際に分裂もしていたりするのですが(笑))。そのことによって彼は語り手が持つ全能性(全肯定性)、または<「自分自身を虚心に見詰め直し、曝けだす姿勢がない」>*1形を回避しているように見えます。(ちなみに、kiaoが『わたしを離さないで』の語り手(主人公)があまり好きになれないのは、謙虚なように見せかけて、結局前述したような姿勢を垣間見せることがないから、と思えてしまうためです。)


 回想録。既に起こったことを何故わざわざ(もう一度)語るのか。そこには、私たちに語らなくてはならない「何か」がある(あった)はずだ、という想いを起こさせ、その小説への求心性を生みだす力が発生するのでしょうか。<回想録が自分自身を、こういう人間として覚えておいてほしいという欲望から書かれるものだとするなら>*2とは、「回想録を語る人物」の欲求であるということは当然のこととして、回想録という「形式」を用いて作者が物語を創出した場合、<そうした設定からどういう記述が可能になるのか>*3という問いへの、私の考えの一つです。


あとついでに。今だにわからない点が。メルヒオール(つまりバルタザール)の銃弾を抜かれるタイミングがいつ存在したのか(一発は撃っているので、空で拳銃を渡されたわけではないはず)、と、お父様は50年間も体力が消耗しなかったのかという点です(お母様もヒトラー並に滋養豊かだったのですかね)。

*1:佐藤亜紀 『小説のストラテジー』 (P.197)

*2:同上 (P.198)

*3:同上 (P.198)