超速ランナーの孤独
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/11/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 1人 クリック: 32回
- この商品を含むブログ (100件) を見る
危ない危ない。七秒台で走っていた期間が長かったせいで、それを半分に縮めたくらいでなんとなく凄いことを成し遂げたような気になっていたが、僕にはまだまだ先があるのだ。人間の気持ちはすぐに満足するし、すぐに限界を感じる。もうこれでいい、もう無理だ、と思いやすい生き物なのだ。
でも僕はそれを知ってるからそれを乗り越えられる。
(P.13)
時空を超越する。
『ディスコ探偵水曜日』では、まず空間を意志の力によってねじ曲げて、空間を操ることができるようになるとその概念を時間の方にも応用させ、ついには時間をも超越してしまいました。
『ディスコ探偵水曜日』よりも前に発表された*1本書においても、その片鱗を見ることができますね。
早さを追い求めて、追い求めて、追い求めた結果、音速を超えて走り抜ける能力を得た成雄。彼は意志の力をもって、人の限界(と思われているもの)を超越してみせます。しかし、第一章で手に入れたその桁外れの能力も、(第二章は第一章とは別次元上の話であり、一応別の話)第三章では同じような力を得た人間を複数登場させています(それでも、成雄の能力は頭一つ抜きんでているのですが)。それは、体操などで不可能とされていたある技が誰かによって成されると、堰を切ったように数年後にはその技を行うことができる選手が出現してくる、というどこかで聞いた話を思い出させました。
誰かができる、不可能ではない、というセルフイメージは、身体能力の限界域を更新させることができるのだと言います。では、その大元となった、人間には実現が可能か不可能か判らないことを成す人、言うなればパイオニアには何が必要なのでしょう。それは限界を規定しないこと。自己を型枠から突破させることができること。その先へと飛躍するイメージを持つことができる人。そう、イメージこそが全ての能力を牽引させる力だということを、舞城は成雄に体現させているように見えました。
何かを一緒にやる仲間を友達というなら、それは無理だ。誰も僕についてこれない。誰も僕に追いつけない。
(…中略…)
孤独だからいいんだ。孤独だからこそ速くなれる。孤独だからこそ遠くまで行ける。
(P.178)
先端を走っている人には、横に人がいない。前にもいない。だけど走りながら後ろは向くことができない。天才と孤独の問題、とありがちなお題目に還元してしまうと、それもまた少し違うニュアンスになってしまいますが。しかし、さして想像に難くないテーゼであることには、代わりないと思います。
やってやる。やれるところを見せてやる。やろうと思ってできないことはないって証明してやる。楠夏は何もできないと思ってる。でも本当は、何もできないと思ってるからこそ何もできないんだ。そんなふうに思っているうちはその部屋から一歩も出られない。確かに楠夏本人にはもうどうしようもないことかもしれない。だからこそ楠夏はずっと一人ぼっちなのだ。それで自分が見捨てられたと思い込んでる。
できるということを楠夏に見せられるのは他人だけだ。
楠夏のことを思う友達だけだ。
(P.185)
前半部は前述したイメージの話と共通します。しかし後半部については、僕には友達なんていらないと言っておきながらある少女(楠夏)を救えるのは友達である僕だ、と言っています。これ、お分かりのとおりそれぞれの「友達」の含むものが異なりますよね。(成雄にとっての)楠夏の存在については、物語のほうでも言及しているのですが、ここでも少々。
友達とは何でしょうか? 同程度の能力を有し得ないのなら、そんな友達はいらない。それは自分の目標の妨げになるから。しかし、楠夏はなぜ友達?彼女は成雄の様に、超人的な走行能力を持っていません。彼女は、成雄だけが追いつくことができる発光体の中に存在しています。彼にとっては、彼女は救い出さなければならない、自分だけが救うことのできる対象です。
孤独だから? 自分と同じく? 走りに走り抜いたその到達点には友達がいたってこと?(……って最後には「好きな子」になってしまっているのですが) これが仮に少年だとしたら? おっさんだったら?