別に音楽は死にはしないけれど、それは単にあなたの望む方向に行かないだけ。

音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

 テクノロジーとは「純粋な音楽」を補強する外的なものではない。むしろそれは、文化の内部に入り込み、その意味合いやとらえ方までも変容させてしまう存在である。
(…中略…)
 機械は人間の身体が行ってきた作業を、人間に代わって行うことを可能にした。(…中略…)
 他方、装置としてのテクノロジーの働きは、(…中略…)文字や画像、音声などの記号を複製し、編集し、流通させる作業だ。ここで拡張されているのは、人間の身体能力ではなく、人間が行っている認知や判断といった、知的な情報操作である。
(p.p.43-44)

 本書を読んでいて、kiaoは割とオーソドックス(というか古めかしい)音楽観の持ち主なのだな、と思いました。何かというと、割と演奏者と聴衆の区分は、心の中ではっきりと分ける方なので。


 ただ音楽を受容するのみだった消費者が、(複製)技術の進化の恩恵を受けて、消費されるだけであった音楽を利用し、新たな音楽を生みだす。DJ文化を引き合いに出して、そういった今や広く浸透された音楽文化(観)を本書では紹介しています。


 ライブハウスやクラシックのコンサートには行ったことがあるけれど、クラブには足を運んだことがkiaoはありません。単なる興味の問題なのですけれど。


 どうでもいいですが、昨日『club asia』の前を通ったら、まだ日が落ちる前だというのに、人だかりが結構ありました。普通に女子中学生たち*1や、小学生たち*2がいて、驚き。おそらく、お客さんだと思うのですが。いつの間にか、クラブが都市におけるお祭りの機能を担っていたということ? なんてね。
クラブにも興味はありますよ、普通に。


 ま、それはいいとして。


 音楽産業の衰退が叫ばれる昨今。うーん、経済成長のピークが過ぎた、その当然の帰結といえばそれまでなのですが。ひたすら経済の成長を追い求め、(一応)実現させてきた前世紀。経済の青年期(さしずめ、ニーチェ風に言うと「昼」?)が終了したことを認めざるを得ない、ということでしょうか。「未来」≒「不安」が、21世紀に生きる人々の心を占めるとは、藤子・F・不二雄先生も想像だにしなかったにちがいねぇ(なぜかいきなりべらんめぇ口調)。


 規模が縮小したなら縮小したなりになんとかやっていけばいいのかもしれないですが、問題は、今の企業構造・社会システムが(経済の)全盛期を基準につくられている、ということでしょう。みんな分かっています。ですが、一度つくったものを、はいそうですかと言って、ないことにできないのが、この世の中の如何ともし難いところですよねぇ。


 本も、音楽も、映画も、ゲームも死んで、残ったのはアーカイブと化したそれらの亡霊。亡霊だから、(それ以上)死にはしないけれど、新たな生命を宿すこともない。永遠の子供。永遠の青年。永遠の老人。
 けれども大丈夫。それらは既に、人一人が一生を費やしても、消費しきれない在庫(ストック)が既に用意されているから。私たちが文化という人生の遊びを生みだす余裕がなくなっても、そのための準備は既に始まっている。問題なのは、それが真に新しいことではなく、私にとって「新しい」ことだということ。それは、古典を楽しめる私たちの行動によって、既に証明されてしまっているから。そんな未来。


 てなことを考えること自体、音楽観が古いのだと思います。
 だって、そもそもアーカイブから新しい音楽を生みだすサンプリングミュージックのことを、全然考慮していないもの(本書の核となる部分なのに)。そして、既存の器楽音楽でさえ、(テクストと似た意味で)ある種のそれと言えるのに。(なんだ、このオチ……)

*1:赤いツナギに「KEEP OUT」の黄ストライプという、十代にしか着られない、原色バリバリファッション。

*2:小学生たちのほうしか保護者らしき人を見かけていませんが、中学生たちのほうも離れた場所にいたのでしょう。たぶん。