舞城王太郎『すっとこどっこいしょ』

新潮 2008年 12月号 [雑誌]

新潮 2008年 12月号 [雑誌]

 外れた天井板は薙刀が抜かれると下の寝室に落ちる。俺の腹が天井から丸出し。
 俺は気付かなかったが、スプリンクラーのように血が吹き出たらしい。
 『くせ者ーっ』ってやられた……。
 何?俺が『ニンニン』とか言ったから?乗った?ノリに乗った?
(P.49)

 実際にプレイしたことはないんですけれど、あれだけ流行して情報が耳に入ってくる機会が多ければ、概要はなんとなく知っているわけでして。半翅目セミ科のあれが鳴く時分のことなんですけれど。
 コンサバでちょっと萌えな感じの女の子が、予想だにしない豹変を現すところに、話題となった一端が。というのは既知の見解ですね。そういったとき、人が真っ先に示す反応というのは「思わず笑ってしまう」というものだと思います。
 
 人間、あまりにも唐突な事態に巻き込まれたとき、その過程を掴むことさえ許されず現状認識を迫られた場合、正常な反応(つまり、パターンに即した反応)は、まずできません。認識と行動は、常に相互補助の関係にあり、瞬間瞬間、互いが互いの結果をフィードバックし続けています。が、認識された内容が、自己パターンに存在しない、あまりにもこれまで認識してきた類のものと懸け離れていた場合、行動は認識の結果を疑い、瞬時の反応*1が不可となってしまいます。発生するのは、疑念と再認が渦巻く現実把握への脳内演算処理。
 
 今認識した内容は、現実の出来事なのか?むしろそれは、何か悪い冗談なのではないか?
 
 「思わず笑ってしまう」というのは、つまりそういったことなのではないでしょうか。だからこの『すっとこどっこいしょ』は、大いに笑い飛ばしてよい作品なのだと思います。実際、読中はところどころで爆笑!! (ま、実際馬鹿〃しい作品でもありますし)←ほめ言葉←『暗闇の中で子供』でよくこんなの使っていましたね。
 
 しかし、「思わず笑ってしまう」というのは、ある種の現実への拒否でもあるわけです。これが冗談であってほしい、冗談であったらどんなにいいことか、と。
 
 「笑い話にする」というのは、ある意味では、現実に対する歪んだ認識作用でもあります。ほら、学生時代に必ず一人はいる無神経な奴が、人の頭をいきなりひっぱたいて、ってーな何すんだよと思って振り向いたら、「冗談冗談」とか言ってヘラヘラ笑っているみたいなことが(笑) あれも、被害を受けた側に対して、歪んだ認識を与えようとする行為ですし*2
 
 本作品の終結部では、主人公の身に起きた災難が、<<天の声>>掲示板にスレッドとして立てられ、事件は実は隠しカメラで撮られていて、それを元に主人公たちがミニアニメ動画を作成、動画サイトに公開し評判になります。<まあでも皆で爆笑ですよ。>と、そこでは事件は完全に笑い話へと変容させられてしまいます。
 
 本来でしたら、その事件はなぜそんな災難を引き起こしてしまったのか、加害者をそこまでの行動に駆り立てたものは何だったのか、事件が残した爪痕とその修復について等々、崩れた日常を回復させるための活動、認識の再構築が必要とされるはずです。そこには、多大な労力が費やされなければなりません。
 
 しかし、彼らはそれを「笑い話」としてしまうことで、現実を解きほぐすための労力を払うことをせず、あっという間に認識作業を終了させてしまっているのです。
 
 そして結末は、そんな事件よりも、未だ確定していない自分の未来(進路)への、前向きな態度で閉じられています。現実の認識より、自分の行く末の方が大事。そんな少し奇妙な、でも実は今の世の中では奇妙ではないのかもしれない、すっとこどっこいな短編なのでした(ここで機種依存文字なので記載できないハートマークたくさん)。

*1:反応とは瞬時に起こるもであり、行動はまた別のであるはずです。そもそも、反応とは現象であり、行動とは行為であるわけですから。

*2:本人はもちろん、その行為の非正当性を理解しています。だから、即座に被害者(そして、加害者)の認識を変容させようとする行為に走るのです。