びっちびっち ちゃっぷちゃっぷ らんらんらん
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/11/27
- メディア: 単行本
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人のゼロは骨なのだ。
そこに肉が付き、皮が張られてその人の形になる。
産まれて育っていろんな人に会っていろんなことを知ってその人が出来上がっていく。
いろんな物語を身にまとう。
その人が死んだなら、身体を焼いて肉を煙にし、骨は集めて土に埋める。身体をまるごと土に埋めるところもあるだろう。身体を全て海や川や空や動物に還すところもあるだろう。
残るのは物語で、それが実際の記憶だろうと、私の勝手な想像による捏造であろうと、物語としては同じだが、たぶん細部の描写の強度で負ける。
描写の強度で負ける物語は、語るに足らない物語なのだ。
(P.205)
煙か土か食い物。
骨だって、肉だって、全ては自分以外のものから取り入れたものを、咀嚼し、消化し、吸収し、それを元に生成されたものであることは間違いありません。物語であっても、それは例外ではありません。
しかし、同じ時代に生きて、同じ風土で育ち、同じようなものを食べてきたにも関わらず、そこで形成される肉体は、もちろん千差万別なのです。まあ、もともと骨に相違があるし、上記の設定は厳密には有り得ないし、還元しすぎて他にも考慮すべきファクターを無視しきっている、というのもありますけれど。
物語に意味はあるのか? という問いは、次のように言い換えられるのかもしれません。
肉体には意味があるのか? と。
肉体は生まれながらにして持っているものですし、それが無くては生きてゆくことはできません。でも物語は? それがなくても生きてゆくことはできるのでは? だって、動物は物語を持たなくても生きていますし。
……たしかに。でも、動物は自分が纏う肉に対して、「肉体」という意識はないはずです。一方人間は、それを意識することはめずらしいことではなく、シェイプしたり、削ぎ込んだり、絞り上げたり、増強したり、維持したり、といったことを課したりします。
それら全ては意識の産物であり、物語もまた意識の産物です。
意味は、「そこに意味があるのか?」という問いが発生した瞬間に初めて存在するのであり、それ以前にはそんなものはどこにもありません。これは「価値」に置き換えても当てはまると思います。
舞城王太郎は、しばしば「物語とは何なのか?」というテーゼを持ち出し、そこにある一定の価値観に基づいた回答を提示してみせます。
決答にもちかいそれは、ある人にとっては鼻まじろう態度をとらせてしまうものなのかもしれません。だからと言ってそれは容易に否定されうるべきものでもないのではないでしょうか。
問うことによって初めて存在するものがあるように、答えることによって初めて存在するものもまたある。それを実践し、体現し続けるのが、舞城の「物語」なのではないかとkiaoは思うのでした。