2009年年末から2010年年始にかけて読んだもの
見ましたね。『イングロリアス・バスターズ』。噂に違わぬおもしろい作品でした。
映画を普段あまり観ない不教養者のkiaoですが、それでも何かこれは観たいと思わせる風がどこからか。
クリストフ・ヴァルツ演じるランダ大佐の存在感が実に大きい。優秀な軍人であり、常に自分の立ち位置を把握している。優秀であるからこそ、スパイが自分の目を抜くことを阻止する自信があり、戦況を冷静に捉えた状況判断を行うこともできる。白眉ここに在りといった人物。だからこそ、理を超えた(理より信念を取る)者にあんなことされてしまうわけですが……。
やはり衝撃はあのクライマックス。物語の勝利と言いますか、フィクションがフィクションであることの強さ、忠実であるということは何なのか(または何に対して忠実であるべきなのか)ということを色々考えさせられました。単純にヒャッハーでもいいですけれど。
一応キーワードとしての「親族の基本構造」は知っていましたが、本人の著作を読むのは初めて。と言っても日本での講演録ですが。
でも、そのためか聴者(読者)に伝わることを目的の第一としているため、彼の研究における狙いや思想・見解などが平易に理解しやすくなっています。
サルトルを批判したのも、彼が歴史の名において人類学を攻撃したからであり、謂わば自衛のためというのにへぇ〜と思ったり。
<日本の伝統的技術のいくらかのものが、そのある過程について聖なる感情というか、ほとんど宗教的な感情を保持していることです>*1という部分。ここをウェス=ボーランドに教えたら、なぜX jAPANの再結成LIVEでいい歳した半裸の演奏者が感極まって抱き合うのかを多少は理解できるかも……(そもそも、ウェスがいたこと自体理由がよく分からないのですが)。
国内外にわたり、多くのミュージシャンをそのファインダーに収めてきたカメラマン『久保憲司』の、新宿リキッドルーム発行フリーペーパー『liqid』に連載されたエッセイを収集した単行本。
最近、こういう「ミュージシャンの周り」にいる人たちの言説というものに興味があったりします。音楽というムーブメントは、演奏者もさることながら、聴衆やその媒介となる人たちによっても創られてゆくということを、今更ながら感じたりしているので。
現代音楽から、ポストロック、果てはアウトサイダー・アーティストまで。所謂「実験音楽」という枠に引っかかるようなミュージシャンのライナーがどかっと載っています。kiaoは全然詳しくないです。
文字で読むと、こんな革命的なことをしている人たちがこれほどいるのか!! と呻ってしまいますが、実際に聴いてみると「???」がすごく多い(笑) こういったものは、それまでの音楽の文脈をきちんと捉えていないと、何がそれまでとコレとを分けているのかということを理解できないものですしね。
でも、Jandekは理解できなくてもいいや(笑) 町山さんが取り上げていましたけれど。そのアティテュードはすごく興味はありますが、音楽自体は別に……。
『Sound&Recording Magazine』の1コーナーの書籍化。普段左記雑誌購読していないけれど。
自分の知らない世界は興味深いです。ちょっと驚いたのは、『SIAM SHADE』の大ヒット曲『1/3の純情な感情』の曲構成について。メンバーは「ABABC」の構成にしたかったのだが、プロデューサーの明石昌夫が「ABCABC」の形にこだわったのだそうです(当時のヒット曲はほとんどその構成だったため)。結果は周知の通り。
まあ全ては結果論なので、何の要素が決定打になったかは神のみぞ知る、ということになりますが。大人の言うことも聞くときは聞いておくべきかー、ってこと?
漫画という文化が日本で成長するにあたって、その成長の裏に何を切り落としてきたのかということが垣間見える一冊。
表現という行為に対して、どこまでが許されるのか。規制されるときは何のために? 誰のために?
漫画という「子どもをメインターゲットにした」「商品」であるという性質上、それらがよりラディカルに表出されているように思えます。
(前略)だが、表現物の規制はいつもこのようにして、ある種なし崩しに進んでいくものだ。当事者も大抵あらがうことができない。なぜならいつも"好ましくない"ことを証明できないのと同様に"好ましい"ことも証明できないからである。ここに第三者の判定が加わると、ゲージは間違いなく"好ましくない”に振れる。
(P.21)
*1:P.118