正論について

 小学校のころに「道徳」の授業というのがありました。なつかしいですね。でも、内容は全く憶えていません。
 
 例えば「良いことをすれば、良いことが返ってくる。悪いことをすれば、いずれ悪いことが返ってくるだろう」というような言葉がありますよね。でも、悪い奴はそんなことを気にも留めないから悪いことをしても平気だし、逆に良い人が(悪いことをしていないのに)悪い目に遭うと、「これは自分の良いことをするという行いが少ないからだ」と自分を責めてしまうかもしれません。
 
 だとしたら、この言葉は何のためにあるのでしょうか? 相互利益による経済的な観点からこれを証明してみせることもできるのかもしれませんが、正論と現状とのズレを実際に感じている人にとってそれは、頭のいい人のお為ごかしにしか聞こえません。
 
 正論が実はあまり力を持っていないことを認識しつつも、それでも正論が存在するための理由。それをkiaoの胸にストンと落としたのが以下だったのです。
 

 でも違うんだよ友徳よ。正論ってのは他人を正すためにあるんじゃないんだよ。正論ってのはあくまでも自分っていう潜水艦の周囲の状況を確かめるために発信するソナーなんだよ。自分が正しいと感じる、信じる意見をポーンち打って、打ってくる反響で地形を調べるのだ。ソナーで道が拓けるわけじゃない。
 人間は周囲をいろんな人間に囲まれているから、誰か一人の意見を鵜呑みにはしない。人にはそれぞれの考え方、感じ方、価値観、行動理論があるってのは基本前提として誰にでも備わっているのだ。お互いの違いを認めてるからこそ、そうそう本質は変わったりしない。皆自分の思うままに生きている。
 でも、同時に人は孤独や孤立に危機を感じる弱い生物だから、周囲の空気や集団の向かう先を読む力には長けていて、声の大きい方につきたがる。そういうのを知ってるからあかりちゃんは常に勝利するのだ。
 友徳よ、あんたがそういう戦法を嫌うなら、あんたに勝ち目はないのだ。
 などと言いつつもまあ人生そのものに勝ち負けなんてない。
 あるのは達成感と挫折感だけ。
 
(P.155 舞城王太郎 『ビッチマグネット』 )

 
 正直言って、『ビッチマグネット』は舞城成分が薄めなのが残念だと思うところがあります。ただ、そのなかでもちょっと琴線に触れる部分はあったりもするわけで。
 
 自分の正しさの根拠なんて、実に曖昧なもので、他人が分かっていないだけなのか、自分の勘違いであるだけなのか、それを判断するための指標がどこかには必要になります。しかし、その指標に何を選択するかもまた自分であったりするのです。結局、自分で目的地を決めて自分で歩み出すしかないのです。
 
 そこに辿り着けるか、否か。二つに一つ。こう考えるとちょっとシンプルになるのか。