獣の樹

獣の樹 (講談社ノベルス)

獣の樹 (講談社ノベルス)

 「結論じゃなくて、そこにいくまでに自分で吟味しろってこと。自分で考えて咀嚼して出した結論が『そう』ならほんでいいけど、おめえ、与えられたまんまじゃん。あんなあ、おめえには世界を疑う権利があるんやで?権利って言うか、世界をちゃんと理解しようと思ったら疑わなあかんのやし、疑わな考えられんし、考えられんと信じられんやろ?まずは疑うことから始まるんや。だからほやで、疑うことは義務にも近いもんでねえ?ちゃんと生きるためにさ」
(P.268)

 
 もうそろそろ「思弁を通して自己を成長させる物語」っていうのはいいんじゃないんですか? 舞城という作家のスタイルと言えばそうかもしれないですけど、ある程度やり尽くした感は否めない気はします。長編になるとおおよそこのスタイルに落ち着きますし。
 
 あと、物語中盤のミステリ部分、というかトリック部分? で気になったこと。
 
 ここは主人公である河原成雄が(義理ではあるが心的な面では本質的な)兄である河原正彦に上記のように叱責されて、自分の身に降りかかる物事をただ受け止めるだけでなく、そこに含まれる本質的な意味を考えるようになるためのイベントとしての役割はたしかにあります。
 
 ただ、このトリック部分が、物語全般を通してみたとき、かなり浮いている気がするのです。
 
 最初、主人公の成雄が馬の子宮から(14歳の肉体で)生まれ落ち、それが河原家の裏庭での出来事だったので、彼はその後河原家に引き取られ、家族として迎え入れられます。
 
 成雄の出自がアンビリバボーなものではありますが、それ以外はリアルな現実性を持つ世界観を提示し、そのアンビリバボーな彼とリアルとしての世界との間で起こる齟齬、そこから派生する事件を通して物語りを展開させる「センス・オブ・ワンダー」的な何か*1なのかなと思いました。
 
 しかし、蛇を乗りこなす少女『楡』との出会い、その楡が住む湯引野児童園のメンバーが起こす国家的クーデターによって、世界観は早くもリアルなものからファンタジー的な要素を多く含むようになります。
 
 同じように物語の中盤にトリック部分のあった『ディスコ探偵水曜日』では、(多少はファンタジー的な要素を含みつつも)リアル路線を踏襲していたミステリ風前半部分を、中盤のトリックをアクロバティックな回答を示すことによって、一転して後半部分をSF的な世界観に変えてみせたという、物語の前半・後半の世界観を大きく変貌させる役割を担っていました。
 
 しかし本作では、前半から既にファンタジー的な要素が少なからず提示され、後半もその世界観は継続されます。*2 「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! 『おれは地下5階の部屋から螺旋階段を降りていったと思ったらいつのまにか地下1階の部屋に戻っていた』  な… 何を言ってるのか わからねーと思うが (…以下略…)(…AAも略…)」的な例の謎について、最初に「ワープ説」と正彦は説いてみせたましたが、すぐにそれを自分で却下してしまいます。
 
 その正彦の言説で、『ディスコ探偵水曜日』で見せたようなアクロバティック性を否定し、あくまで論理的回答をガチンコで求めてきます。だから、前半も後半も(成雄の超人的な能力含め)ぶっとんだ世界観を見せているのに、この中盤のトリック部分だけはそういったぶっとびを否定しているのです。
 
 中盤のトリック部分が、『ディスコ探偵水曜日』では前半と後半の橋渡し的役割を担っていたのに対し、本作では前半と後半から妙に浮いてしまっている気がするのは、そういった理由です。
 
 こういった多少強引とも言えるミステリ的要素は、自分はあくまでミステリ的な部分を忘れてはいないよというパフォーマンスなのか、トリックを支えるための論理性は保持するけれど世界観はあんま気にしていないだけなのか。まあ、清涼院流水のトリビュートを書くくらいですから、後者であり、その考察さえ今更なのかもしれませんけれど。
 

 「喜びは鳥になる。悲しみは石になる。悪は木になる。アイウィルテルユーヴェリーヴェリーバァァァァットシングスアンダーザブランチィズオブマイン。おいで、ナルオトヒオコ」
(P.47)

 <悪は木になる。>
 ああ、楓とか楠(夏)とか楡とかですね、わかります。
 
 例の短編がちょっと気になりますが、2005年の『週刊新潮』なんて国会図書館くらいでしかお目にかかれません。そんな気力がどこにあるというのか……。スウィィィィトチャイルドオブマイン(←特に意味はなし)。
 
 

*1:この用語の使い方、合ってるいるのかどうか多少不安。

*2:ただし本作では、「セカイ系」的な、「ボクと彼女」と「世界」の間に、世界を構成する「国家」及びそれらの関係が登場しているのが注目すべきところでしょうか。