感想とか書いていなかったもの

のめりこみ音楽起業―孤高のインディペンデント企業、Pヴァイン創業者のメモワール (YOU GOTTA BE Series Extra)
 Pヴァインの創業者・日暮泰文氏による、その創業記。Pヴァインと言えば、ブラックミュージックに詳しくないkiaoでも名前は聞いたことのあるくらい、ある種のポジションを確立しているレーベルでお馴染みです(kiao的にはFUNK系でお世話に)。
 
 やりたいことがあって、それを行うのに便利だからとりあえず「会社」という形式を創る、というのがすごくまともな(そして本質的な)起業感だと思いました。著者も、あまり「会社」を「経営」するというビジネス的な思考は目指していなかった、とのこと。
 
 やはりそれは、「ブラックミュージック」という(今でこそそれなりの市民権を得ているが)メインストリームではない、それでも好きでやまない音楽を少しでも多くの人に、少しでも多くのミュージシャンを紹介したいという、私欲を超えた『何か』のために動く力があってこそ、というのでしょうか。
 
 どんなにいい宝石がそこに眠っていようと、メインストリームではないそれらは、何もしなかったら誰に知られることなく消えてしまうような存在です。経済の倫理で言えば淘汰されて当然の存在。だが数値では図ることのできない価値を知っているし、信じてるからこそ、所謂倍々ゲームの理論で、「成長こそ正義」のガッハッハ的ビジネス思考とは一線を画すのです。
 
 『どの領域でどのような形でなどなにもきめていませんが、とにかく起業したいです。』なんてのは論外ですね。それは皆分かっていることですが。
 
美咲ヶ丘ite 2 (IKKI COMIX)WOMAN (Next comics)
 鈴木雅之の大ヒット曲『もう涙はいらない』は、日本テレビ系ドラマ 『刑事貴族3』EDテーマでして、kiaoの中では水谷豊と言えば「本城慎太郎」刑事だったりします。調べてみたら、『刑事貴族2』のころから寺脇康文と共演しているんですね。そして数年を経て『相棒』とは。運命というんでしょうか。
 え〜と、何が言いたいかというと、≪生きてゆくこと平凡じゃない≫ということです。
 
うそつきパラドクス 4 (ジェッツコミックス)
 あ、これよく見たら昼ドラだ。とは言うものの、栖祐さんの本彼「名古屋」こと大桑和樹のキャラづけがうまいです。3巻の終わり時点で、完全に栖祐さんと八日堂との関係に終止符が打たれたと思ったのに、大桑の人物造形と栖祐さんとの関係性(+両者の友人の猪狩との関係性)によって、八日堂への可能性がまだ残されている気が読者に植え付けられましたから。帯に藤森慎吾を考えた白泉社編集のセンスだけはよく分かりませんが。
 
音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々
 音楽が人に与える影響、それは快楽を生じさせること。その快楽は普通では生活に支障をきたさない程度のものであるが、稀にそれが度を超して、欲望する力がその人の生き方を変えてしまうことがある。それが音楽に「憑かれる」という状態を指す。
 そんな人々に自身も接してきた脳神経科学医オリヴァー・サックスのエッセイ集。
 読み途中で、放置してあるのを発見しました。面白いので続きを読もうとは思うのですが……。何で放置してたんでしょう。なぞ。
 
Kitano par Kitano 北野武による「たけし」
 フランスで出版された書籍の逆輸入版みたいなもの。本来が国外メディア向けに作られたからと言って、語っていることはそれ用に特別なことは言っていない気がします。真摯に飾らない北野武の言説が読めます。
 例のバイク事故についての意見は、なるほど、ごもっともと。批評は他人の不幸にも何か意味を求めようとしがちですが、本人にとっては良い迷惑だということが。

 (前略)あのひどい事故を経験して、俺が別の世界、有益な人生を見出した、なんて言う者もいるけど、そういう人たちに言わせると、ある意味、俺の人生が前よりましになったって言うんだよ。俺はそうは思わないね。今の人生のほうがましだなんで思わない。逆だよ! こんなひどい面(つら)になっちゃったんだから。今でも、鏡で自分の顔を見て、吹き出しちゃうことがあるよ。
(P.157)

 
反アート入門
 絵画と紙幣との共通性を見出すところは、なるほど、と思いました。謂わば『美術史』と『国家』、それぞれにおける「共同幻想」がその価値を保証している(それ故に不当に価値が高騰したり暴落したりする)ということ。他にも興味深い内容が多数。著者の他の著作も是非読みたいと思いました。そんな時間が欲しい……。
 
セルフ・ドキュメンタリー ---映画監督・松江哲明ができるまで
 ドキュメンタリー映画監督『松江哲明』が、自身のこれまでの活動をふり返り、映画とりわけドキュメンタリーが持つ力、その魅力、それでしかできない作品、またそれこそが最も最適な表現手段とする自分自身について語るエッセイ。
 kiaoはこの監督のことは全く知らず、帯の『あんにょん由美香』(それでさえ、作品名を知るのみ)だけが前情報としてある状態で読みました。それでも、一つの実践的映画論として十分に楽しめます。
 ドキュメンタリーはありのままの現実を映すものではなく、現実から監督が何かを伝えるために演出された作品である、ということは今や周知の事実です。ではそれを一歩推し進めて、ドキュメンタリーに見せかけた(予め台本の用意された)フェイクドキュメンタリーについてはどうか? という問いに対して、著者はこう答えます。

 僕はフェイク・ドキュメンタリーもドキュメンタリーの一部と解釈している。なぜならドキュメンタリーはジャンルではなく、手法でしかないからだ(引用者・太字)。作り手の伝えたいこと、描きたいことを伝える手段に、リアルもフェイクも関係ない。「何が伝わったのか」、それが一番大切なことだと思う。ただし、すぐにバレるような下手な嘘をついておいて「ドキュメンタリーです」と言いはるのはかっこ悪い。逆にフェイクでしか撮れないはずなのに、リアリティ溢れる演出がされた作品を見ると、「すごいな」と圧倒されてしまう。やはり大切なのは作り手の意図であり狙いなのだ。
(P.P.198-199)

 これをもっと拡大解釈できるならば、世のジャンルと称されるものは(アクション・サスペンス・ラブロマンス・ホラー・etc)、全て何かを伝えるための「手段」であると置き換えられるのでは? と考えてしまうのは穿ちすぎでしょうか。
 
 
 今読み途中なのは、『ニュー・ジャズ・スタディーズ』。難しいものもありますが、一つ一つの論考は実に興味深いです。中には(翻訳)小説の文体論としても注目すべきものも*1
 
 
 他には、『涼子さんの言うことには』や、豊粼由美・岡野宏文コンビのあの本、いくつかの新書、はたまた『道草』.etc。あと志村貴子『隣人』は、勿論読んでいます。どーでもいいツッコミですが、下宿の居住者が突然消えたら、大家が失踪人として警察に捜索願を出すと思われますが……。まあそこは、星新一ショートショートに一々突っ込む野暮みたいなもの、ですか。
 
 音楽は、最近はSteve ReichとSimeon ten Holtです。後者の曲って、最初から最後まできちんと聴き通せる人いるのでしょうか? kiaoは眠ってしまいますが(笑) だって、『Canto Ostinato』はCD2枚に渡って、総計145分。ミニマル的なアレでフレーズが繰り返す〃。他の曲も同様。きちんと聴くには、事前に死ぬほど寝て、体調を整えて疲れを残さず、胃の中を空っぽにして、そして立ち向かわなければ。……無理。いや、kiaoの体力が衰えまくりなのもあるのですが。この前友人達と出かけてそれを実感。

*1:細川周平 『ルビで踊って――ベン・ヘクトの翻訳と谷譲次の遊技的書記法』