グロくて猥雑で後ろ向きで、でも前向きでポップ

みんな元気。

みんな元気。

「落としたりしないって!」と唯士は言う。「だから邪魔すんなよ!いいじゃん、諦めれよ!」
「なに言ってんの」と姉が言う。「人生諦めちゃってるあんたみたいに何でもかんでも諦めなんないんじゃない?そう簡単には」
「……」
「あんたこそ中途半端に頑張らずにもう一回諦めれば?」と姉が続ける。「どうせあんた、ホントはどっちでもいいような感じなんじゃないの?実際さ、中途半端な無気力君の脱力人生、気張って見せたって底が知れてるよ。やめとけば?みっともないから」

人生なんてそんなに壮大なステージじゃなく、寧ろしょっぱい事のオンパレードだってことは生きていれば嫌でも思い知らされるし、だから中途半端に達観したようなスタンスで「しょうがないんじゃねーの」「やってもいいけど多分無駄だぜ」という何かわかったような物言いで余裕ぶりたくなっちゃうのも分かるけど、やっぱ分かんない。その余裕ったってその「しょーがないこと」に敗北した自分にやられたまんまなだけだし、たかが二桁の年数しか生きてないのに「所詮人生なんて個人の力じゃどーにもなんねーよ」って諦めてるオレってちょっとカッコよくねぇ?みたいな期待なのを持ってる姿って胃液吐きたくなるほどファッキンな気分。

と浅はかな舞城文体をやってみたのだけれど、キショいな。わりと今作は(てか、本書は「みんな元気。」しかまだ読んでいないんだけど)メッセージというか伝えたいことをストレートに吐き出していて分かりやすかった。文章に関して、独特の擬音とかは狙っている感がありありであるけれど、あの疾走感のある独特の文体は健在で素で出ているんだろくて(もちろん、調節はできるのだろうけど)気持ちよかった。舞城文体ってどんなのだろうといえば、「状況(または人物描写)、心情、逆説の接続詞、真の心情(本音)」で作るとそれっぽくなるかも(考察浅ッ!!)
例えば、

「あのさ、枇杷は後半戦に来てくれよ。前半戦でゆりに基本的なこと習って、発展問題は枇杷教えてよ」と昭は言い、私は「うう、初めてゆりちゃんに負けた気がする〜」とふざけたふうに退場するが、内心マジでショックなんだけど。

とか

母が手をつないでいる昭の頭は包帯を巻かれたビーチボールみたいに丸くふくらんでいて、今にもぼかんと爆発しそうに見える。死んでないのが不思議な感じ。でも死んでなくて良かったと思う。

みたいな*1

なんで突然舞城を読みたくなったかというと、

 表題作「みんな元気。」を読んで、思わず引用したくなってしまうぐらい印象的な科白があった。

「家族なんて入れ替え可能だっつうの」

 衝撃的である。「みんな元気。」はその題名どおり、とにかく元気いっぱいしっちゃかめっちゃかな内容だった。

雲上四季 2006-01-10 より

を拝見して、kiaoもこのたった一言の台詞にズキューンとやられちまったわけなのであったりする。

そして、この台詞のアンサー的台詞もまた本文中にある。

私は言う。「あのね、私ら、ちょっと意地んなってただけだよ、今じゃ。確かにあんたじゃなくっても、家族は別にいいんだもん」
「…じゃあ放っておけば良かったんじゃん」
「最初は愛情だもん。途中から意地になっちゃったんだもん」
「うわ正直に言うね」

家族愛だろうが、恋愛だろうが、友愛だろうが、きっとどこかには永遠に続く愛情っていうものがあるのかもしれない、とか思っちゃってる人がいたら、その人は愛情っていうものを全然理解していないと思う。単なるニヒリズム的見解からの意見とは違ってね。

なんだかわかんないけど、読んで良かった気がする、という読後感は味わえると思う。途中読んでて混乱するところもあるけれど、現在と未来(そして消される「もし」の可能性)を等価に描写する文章だと分かれば納得。

*1:異論はたくさんあるだろうけど、多めに見てやっておくれませ