なぜ、手塚にマンガの歴史を見るのかが改めて分かる。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

読み終わった。ユリイカを読んだので伊藤氏の言いたいことは大雑把には把握していたが、本書を読むことでその理解を深く掘り下げることができた。
「キャラとキャラクター」「フレームの不確定性」「同一化技法」など、今まで読んでいて意識していなかったことを知ると、作品を見たときにそれまでなかった新たな視点で楽しむことができる。マンガの歴史に興味がなくとも、マンガ好きなら読んで損はないだろう。
本書の中で引用されているある文「小説家には”文体”っていうのがある。それと同じようにマンガ家には”コマ割り”があって、これは編集者であろうが評論家であろうが、絶対に真似はできん」小説家における”文体”は、ギタリストにおいては”トーン”と同義であるとkiaoは思う。どちらもその個人特有のもので、たとえどんな作品(曲)を作っても、その人が持つ個性を滲み出させるものではないだろうか。
例えばジェフ・ベックは、ロックを演ろうが、ジャズを演ろうが、カントリーを演ろうが、そこに彼特有のトーンがあるかぎりジェフの音楽なのだ。
小説も、ミステリーを書こうが、ハードボイルドを書こうが、恋愛ものをかこうが、その人自身の文体を持っている人は、やはりその人の小説であることに変わりはない。
有栖川有栖氏が何かの(音楽)雑誌で、「ミステリーはハードロックに似ている。さしずめフュージョンはSFではないだろうか」みたいなことを言っていた(有栖川氏はフュージョン好きらしい)。ミステリーはトリックさえ決まれば、ある程度物語は決まる。ハードロックは良いリフができれば、ある程度曲は作れる。フュージョンもSFも、まずはその構成(曲の構成であったり、物語の世界観であったり)自体を(独特なものに)構築してゆく必要がある。とkiaoは解釈してみたが、どうだろう。