この作品にはオカンとマー君がでてきます
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/12/07
- メディア: 新書
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「熊の場所」 ふとしたきっかけで、今までクラスの中でもあまり交流のなかったマー君が猫の尻尾を収集していることに気づいてしまい、一旦は逃げ出したものの、恐怖を消し去るためにはその恐怖の元へできるだけ早く戻らねければならないという父の教えを思い出した僕は、再びマー君に近づく。最初は恐怖していたがしだいにマー君にひかれてゆき、ネコ殺しの犯人がマー君だと確信した後もむしろ最期に僕を殺すのだろうと期待をしてしまう僕は、まるで蜘蛛の巣に捕らわれて捕食されるのを待つ蝶のような恍惚の情念すら感じてしまっている。その「僕」の転落するさまを匂わせといて、話は突如別のほうへと向かう(むしろ、主題への回帰?)。
「バット男」 ディスコミュニケーション。求めるだけの愛はどんなことをしても一生満たされることはない。人を振り向かせるために自分を傷つけて、でもそんなことではさらに自分を貶めてゆくだけにしかならない。物語であるがゆえの特別性をあえて排除したため、救われない話。
「ピコーン」 ここでは犯人が死体を弄くりまわして意味を見出そうという行為がある。『阿修羅ガール』における死体のコラージュは、それが作者の言いたいこと、つまり主題レヴェルの意味があった。この作品においては、犯人の稚拙な意味づけでしかない。前者は犯罪者の無意識レヴェルの行為、後者は意識レヴェルの行為だが、基本的には人を殺すことには良い意味などない。ただ、前者の場合は無意識に裏打ちされる自己保身という卑小な心すらないことによって、だからこそ見える、掃溜めの中の一輪の花ほどの真理を見ることができる。後者は、単なる卑小な人物の筋違いな行動でしかない(そういう風に描いている)。
『みんな元気。』とおなじく本書『熊の場所』も短編集だが、音楽CDで言ったら前者がどれもシングルカットできそうな作品なのに比べ、後者はアルバム収録曲としては聴けるが、シングルカットはどれもできそうにないなという感じの作品群だった(個人的には)。