絵は、どうなんでしょうね。

好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。

つまり美というのは倫理とは別のところにあるということ、ただし批評は倫理とともにあることを僕は読む人に分かってほしかったのだ。人の全身を包む炎を美しいと感じながらも美しいと思わないとき、美しいと感じることも美しいと思わないことも正しいのだ。

舞城の小説は分かりやすい。
例えばミステリーなどを代表とするエンターテイメントは耐久性が強い。読み終わった後、読者に「で、結局何を伝えたかったの?」と聞かれても「え、特にはべつに。おもしろかったでしょ?」で最終的によいのだ*1。純文学や詩は言葉に言葉を選んで主題を話に織り込ませて、しかし読者が「あ、話がおわった。……で、どういうこと?」と置き去りにされようとも、読者己自身に読み取る能力を強いる。その点舞城の場合何のことはない、文中にしっかりと書いているのだから。ほら、上のようにしっかりと。
舞城の話は途中で急に違う形の話が入ってきて筋がよくわからないと嘆く必要はないと思う。舞城の作品は「ストーリー」なのではなく「メッセージ」であり、「メッセージ」の手段としての「お話」なのだ*2

トースターから出てきたばかりでマーガリンをさっと塗られたトーストの、指先の当たるミミの温かさ、柔らかさ、パン全体のしなやかさ、堅さ、湯気に混じるパンとマーガリンの香り、表面で溶けたマーガリンの艶、それらがボクに与える情報と柿緒(引用者・注:主人公の恋人)の死が与える情報の量は一緒なのだ。

一つの話にいくつもの「お話」が急に脈絡もなく取って代わったり戻ったりするのも、それが手段であるためだろう。どの「お話」が「主」でどの「お話」が「従」なのかと読み取ろうとすると混乱する。それらはすべて「メッセージ」のための手段なのであり、「メッセージ」が「主」であるため、一つの話しの中にあるどの「お話」も「従」なのであり、どれもが「等価」なのだ。そして「等価」は舞城の主題のなかでもよく取り上げられるもののひとつである。どんな出来事も、意見も、悲しいことの裏に喜びがあり、汚いものの裏に美しいものがあり、主人公の意見の裏に等しくそれと対応する意見が常に存在している。

だからこの世にはたくさんの小説がある。(…中略…)人生を大きく変えてしまったように思える事件、そういうことばかりを書いているわけではない。(…中略…)あるいは出来事とも呼べないようなささやかな何かを書いている小説もある。つまり小説とはいかに細やかに注意を払うかなのだ。しかるべき注意が払われたなら、さっきも言った通りに全ての事柄は等価だ。

そして「ストーリー」がその前面に押し出された「メッセージ」にぎりぎり崩される手前で押しとどまっているのが舞城の作品なのではないだろうか。ただ逆に言うと、「メッセージ」を「ストーリー」を読むうちに気づかせる構造こそが「小説」の力でもあり、そういった点で舞城の作品を受け付けにくいという人がいても当然のことだと思う*3

抜粋は全て「好き好き大好き超愛してる。」より。

*1:良いのか?

*2:近作に近づけば近づくほど

*3:稚拙だと思ったり、技術力が足りないと感じたり。そういった指摘が正しいかどうかはそれぞれの判断で。