表紙が青空シリーズから脱出した!!

おおきく振りかぶって(6) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(6) (アフタヌーンKC)

構図はまさに〈逃げる〉西浦〈追う〉桐青。初出場という相手に全くのノーデータであること、三橋の少しオーヴァーペース気味でもあるテンションの高さ、田島が桐青のピッチャー高瀬のモーションを盗めたことと、どんな材料を使ってでも一歩前に出続けて逃げ切りたい西浦を、相手の出方を一つ一つ確かめてゆくように少しずつ追いつき喰らいついてゆく桐青。西浦必死の「2点目」と、やっとこさ「2点目」か、の桐青。両者が持つ実力のポテンシャルがやはりちがう。そんな中、「まっすぐ」や9分割コントロールという三橋のアドバンテージが桐青に対しここまで効いてきたのはたしかなことだ。三橋という特殊な綱の上を歩かされているような立場の西浦、その綱が切れずに9回という向こう岸まで渉りきれれば勝ちの可能性は見えてくる。が、その前に切れてしまうと桐青の攻勢という奈落に落ちてしまう。
6巻が終わり、次巻は7回の裏桐青の攻撃から始まる。西浦は再び桐青から点を奪うことはできるのか。そして三橋はあの異常なテンションが続く中、最期まで投げきることができるのだろうか。
スポーツは筋書きのないドラマとよく言うが、これはもちろんマンガなので筋書きはあるのだけれども、それでも先の展開が楽しみでハラハラしてしまうこの手に汗握る展開は気持ちいい。水島先生の「岩城を三振させようと思って描きあげたら、勝手に打っちゃってた」と同じぐらいのトランス状態で描いている!?とりあえず、あんまり先のことは考えてないようで(たぶん)、よい。

でここからは別の話。
まいどおなじみ、ひぐちアサによる巻末&カバー外したところのおまけ。読者サービスの一環でやっているのもあるだろうけど、作者的にはこういうキャラ設定とか本編で語られない部分とかを考えるのが好きなのだろう。キャラクターをキャラ化する読み方というのか、女子に多く見られる傾向とでもいえばよいのか。それが転じると「やおい」的読み方になるようなのだけれど。

…が、やおい系の知人に色々話を聞くと、こういうことらしい。
多くのキャラクターを出しながら、けっして彼らの人生や動機の背景を詳しく描かないことで、やおい的な想像力(誰と誰がくっついて、どちらが「受け」「攻め」で、というやつね)が働きやすくなっている。
夏目房之介・著 『マンガは今どうなっておるのか?』

おお振り」は野球マンガである。それも試合展開にそのほとんどを費やすため、必然的に描く余裕のないものはそぎ落としていかなければならない。もともと意味のない人生にすら意味を見出そうとするように、人は足りないものを自分の頭の中で補完するようにできている。だから本編で描くことのできない部分はやおい的な想像力が十分に発揮できる部分であり、作者のおまけはいい投下燃料となりえるのかもしれない。
本編のキャラクターの行動は「公私」で言えばいわば「公」にあたり、本編には描かれない(けれども存在するだろうと想像される)部分は「私」に当たると言える。「公」の部分でその人物を好きになった場合、「私」を知りたいと思える人間は「私」に夢を持つことができる人間であるのだろう(逆に「私」を知りたいと思わない人間は、「私」を知って幻滅したくないのか、ただ単にそんなことはめんどくさいだけだと思う人間だと言える)。つまり「私」に夢を持てる人間は「公」と「私」が重度に関係しあい、両者が近似に存在しうると想定している。逆に「私」に夢を持てない人間は「公」と「私」はあくまで別、むしろ相反こそすれ同質であろうとは考えられない者、と言えるのではないだろうか。

例えばここで「舞台裏」という言葉をもってきた場合、二つの「裏」が想定できる。
男性的「舞台裏」とは、キャラクターが役を演じているという設定で「カット!!」という掛け声と共に今まで演じていた役を降りるというような見せ方。
一方女性的「舞台裏」は本編という「舞台」で、本編では描かれない日常・アナザーストーリーを「舞台裏」とする見せ方、と二種類出来上がる。
と、やおい的を女性的と決め付けた展開で進めてみたのだが、強引。

あれ、じゃあ今公開している「ラオウ伝 殉愛の章」というのはやおい的見方になるのか?わけわからなくなってきた。