雪埃、舞い散る

虹ヶ原 ホログラフ

虹ヶ原 ホログラフ

浅田いにおの描く線は、どんどん端整になってゆく。どこまで映像に近づけるかが、著者の絵の目指すところになっているのだと思う。マンガと同時に、映画からも絵の見せ方を吸収しているのが分かる。もしかしたら、岩井俊二になりたいのかもしれない(これは、皮肉ではない)。
映画からの手法もブレンドされることにより、他の漫画家との絵の見せ方が大きく違う点が分かる。それは、「引き」の絵が多様されることだ。キャラを見せたくてしかたない漫画家の絵は、バストアップ以上の絵が目立つ。それは、顔を描きたくてしかたない想いと無関係ではないと思う。
しかし、著者は登場人物を引き離す。読者に(登場人物へ)感情移入することを拒むかのように。感情移入できない読者は、登場人物の心が覗けない。だから、彼らが持つ心の闇の正体を掴む個ことができず、得体の知れない恐怖さえ憶える(喫茶店の店長が、彼に気のあるバイトの美大生の子から絵をもらった後、次のページをめくると、何の表情も変えずに絵を膝頭で叩き折る演出など、それを如実に表している)。
カメラを遠く引いて、大きな背景の中にポツンと人を置くと、圧倒的なもの(運命、取り巻く世界)に逆らえず、翻弄されるしかない人の非力さを表すことができる(フリードリヒの「海辺の修道士」などがその典型)。狙ってか狙わずか、浅野いにおの作品には、そういった非力ゆえ翻弄されることしかできない人の哀しみを描き出す力があると思う。