刑務所の中 ロシア版

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

*1

しかし囚人がどんな人間で、刑期がどれだけであろうと、彼は、自分の運命が肯定できる決定的なもの、つまり真実の生活の一部であると考えることは、ぜったいに、本能的にできないのである。どの囚人も、自分の家(原文傍点アリ)にいると感じていない、客に来ているような気持ちなのだ。(…中略…)だから五十五で監獄を出ても、三十五のいまの若さと少しも変わらない、とすっかり信じこんでいるのだ。『生活はこれからさ!』――

「死の家」とは刑務所のこと。そんな場所にたどりつくような輩だからか、一癖抱えたような者たちが当然のように揃っている。とその一方で、なんでこのような礼儀正しくまっすぐな青年がこんな場所にいるのだろうかと不思議に思えることもある。獄舎で過ごしたときに見た受刑者たちや当局の者たち、そこでの普段の生活やクリスマスといったイベント、貴族と民衆の間に存在し決してなくなることはない見えない壁etc、「わたし」の目を通して19世紀後半のロシアの獄舎を垣間見ることができる。解説を読めば、著者が思想犯として逮捕され、シベリア流刑に処されたときの獄中記として読めることがわかるが、作品内ではある人物の書いた手記という作中作として扱われている*2そういった意味で、小説でありながら「わたし」が数年にわたり過ごしたそれの記録とも言える作品。
刑務所のリタ・ヘイワース』みたいなドラマ性と『刑務所の中』みたいなルポ的なものの中間的な感じ。入獄当初親しくしてくてくれた彼はこういうやつだ、獄舎のなかではじつは金銭のやり取りがされている、クリスマス時期に公に行われるお祭りの楽しみ、など種々様々な話が語られる。


また、そして本書の中には、他作品でも語られることがある「罪」というものの概念・「罰」というものの概念に大きな疑問を投げかけている記述がある。

「罰」について

たしかに、犯罪というものは、おおよそでも、比較するわけにはいかない。たとえば、二人の人間がそれぞれ殺人の罪を犯したとする。二つの事件のあらゆる事情が考慮される、するとそのどちらの犯罪にもほぼ同じような刑罰が下される。たとえば、一人はわけもなく、何とたかが玉ねぎ一つのために、人を殺したのである。(…中略…)もう一人の男は、好色な地主の毒牙から妻か、妹か、娘の貞操を守ろうとして、殺人を犯したのだ。(…中略…)ところが、どうだろう? そのどちらの殺人者も同じ監獄にはいるのである。(…中略…)しかし、たといこの不平等が存在しなかったとしてさえ――もう一つの相違、刑罰の結果そのものの中に生じる相違を忘れてはならない(…中略…)
たとえば、教養があり、高度な良心と、自覚と、人間の心をもっている者もいる。こういう男の場合は、その心の苦痛が、どんな刑罰よりも先に、その苦しい懊悩で当人の生命を亡ぼしてしまう。(…中略…)かと思うと、その隣にいる男は、監獄にいる間じゅう、自分の犯した罪についてただの一度も考えたことがない。彼は自分を正しいとさえ思っている。

「罪」について

この木柵の中で、どれほど多くの青春がむなしく葬られたことが、どれほど偉大な力がなすことなく亡び去ったことか! ここまで来たら、もう何もかも言ってしまわなければならぬ。たしかに、ここに住む人々は、まれに見る人間ばかりだった。ほんとに、わがロシアに住む全ての人々の中で、もっとも天分豊かな、もっとも強い人間たち言いうるかもしれない。ところが、それらのたくましい力がむなしく亡び去ってしまった、異常に、不法に、二度とかえることなく亡び去ってしまったのである。では、それはだれの罪か?
ほんとに、だれの罪なのか?

この「罰」は「罪」という意識の問題であり、この「罪」は「罰」の結果がもたらすものの問題である。平等なる責任。社会的利益。人間というリソースを、どうやったら最適に活用(処分)することができるのか。

しかし、解決不可能の問題に取組んでみたところで、どうなろう!太鼓が鳴っている、獄舎へもどる時間だ。

*1:はまぞうに写っているほうではない、新版の表紙のほうがかっこいいぞ

*2:だが、この作中作が終わると同時に本書も終わるので、作中作外の物語の意味は薄い。