分岐、平行、インプラント

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

短編集。イーガンは短編集のほうはわかりやすいという噂どおり、最初の「行動原理」「真心」は理解できた(インプラントというものが想像できれば大丈夫)。「理知的で静かな狂気」という表現が浮かんだ。が、次の「ルミナス」が、がっつりムズい。宇宙紐、クウォーク、ω体系、イデア主義…、ぜっんぜんわからん!!が、ここであきらめてはダメだ。なせならこれが小説である以上、読者に伝わるように必ず言い換えている部分があるはず*1だからだ。だから、細かい固有名詞はよくわからないのも多かったが、話題を俯瞰的に見ればどんなことがいいたいのかなんとなく分かったし、「ぼくは無言で、矛盾する数学が日常的な世界の中に触手をのばすのを想像しようとした」という文章に行き当った瞬間に、先の推測は間違っていなかったと確信した。「ルミナス」のkiao的イメージは「セカイ系」ならず「世界系*2」という感じかな。でまた「決断者」「二人の距離」と読み進めていって、「Oracle」でド躓く。なんだか気分が乗らないので、「ひとりっ子」を先に読む。なんだこれは。すごい。限りなく生命にちかい無機物を生み出すことへの葛藤、これは本来有機物である「子」を生み出す我々が考えなければならない問題のはずである。有機物である「生」をできた・できないでポンポン生み出す私たちのオツムの軽さ、無機物である「生」を生み出すことを決意するまでにいたる社会的な影響とその「生」自身への生み出した側の全責任。これらのパラドックスが生み出す問題は、もっと考えなくてはならないだろう、誰にとっても。

故意に子どもを放置している親の中でも最悪の連中を除けば、生身のわが子が生まれてきたことを喜んでいないと知って、絶望的な気分にならない親はいない。もしぼくが、自分に押しつけられた存在のありように欠陥があったからといって母や父に毒づいたしたら、両親とぼくのどちらが世間さまからより大きな同情を買うかは、考えるまでもない。だが、ぼくたちの(原文傍点部)娘に問題があったなら、それがなんであろうと非難囂々だろう――どれだけの愛と、努力と、自己分析をもって娘を作ったとしても――なぜならぼくたちはだれもが自分たちの子どもに喜んで負わせているたぐいの運命に、不満をいだいたのだから。

で、この「ひとりっ子」を読んだあとに「Oracle」を読むと、…断然理解度がちがってくる。「ひとりっ子」ででてきた(と思われる)人物がこちらにも登場するし*3、分岐・履歴・因果干渉の概念も「ひとりっ子」を経ると飲み込みやすい。たしかに読後感というか、最期のシメとして最期に「ひとりっ子」を持ってきたいのはわかる。だが、個人的には「ひとりっ子」→「Oracle」の順番のほうが、その世界観のリンクを楽しめるという意味でも、お勧めだったりする。

*1:例えば、粒子力学・数学に関しての知識がなければ理解できないなんて小説は、「小説」ではないだろう。

*2:「系」をシステムと読んでもいい

*3:単なる同名ではないだろう。両者がもつ普通の人間と違う性質も共通だし