なんか、ちらほらと読んだものども

ここ1週間ほど、気力がわかなかったので、ちょっと前に読んだものども。
アメリカ横断TVガイド (映画秘宝コレクション)
あきれるほどのTV局とTV番組があれば、へんな番組の絶対数も必然的に増すわけで。印象的な文を2つほど。

1986年、障害者の見世物を法律で禁じる動きが起こったが、彼ら芸人たちは法廷で闘い、見事、自分の身体を見せてお金を稼ぐ権利を勝ち取った。しかし、すでに人々はサイドショーに興味を失っていた。なぜならフリークの人たちは、たとえ外見は変わっていても、それを除けば善良な市民でしかない。ところが今のテレビのトーク・ショーでは、五体満足だが中身はサイテーの連中がすさまじい狂態を繰り広げているのだから。
サイドショーは生きている

人種、身体障害、貧困、離婚、論争、差別、平等、投票……この「家(引用者注・TVのこと)」はアメリカの縮図だ。金や名声のためならセックスだろうが犯罪だろうがチャンスとして消費されること、それをテレビで全部見せてしまうこと、そして、それが全部「笑い」として消費されること、どれもたまらなくアメリカだ。眉をひそめる人もいるだろう。だけど僕は好きだな。三権分立のすべてをテレビで公開する国のほうが、総理大臣を密室で決める国よりも。
あとがき より

我らクレイジー☆エンジニア主義 (講談社BIZ)
こういうちょっと偉才を放つ、その業界では少々名がうれてる人たちには興味がわく。なかでも一人、とんでもない経歴を持つ、まさに、天才な人がいるからすごい。で、その人のブログをみたら、これまた胡散臭い感じがすげーするからまたすごい。なにこの触れ幅は。

醜い日本の私 (新潮選書)
going my way!!!! 無視できないことが多すぎると言うことは、それだけ感受性が豊かだということだと言えるのではないか。そういえば、よく見ると日本の空は電線が張り巡らされていて、美しいとはいえないな。引用されている「しきりの文化論」は、なるほどなと思った。以下の文も愁眉。

日本人にとって「自然」とは固有の概念でなく「副詞的自然」つまり自然に(原文傍点部)という意味しかもたない、(…中略…)わが国では自然は人工や人為の対極にある概念ではなく(…中略…)考えてみれば、日本人が日常的に眼にする自然とは、なまの荒々しい自然ではなく、きれいに耕作された田んぼや鎮守の森や藁葺き屋根を取り込んだなつかしい風景であって、そのまま人為的な風景なのである。

続・エーガ界に捧ぐ
シティ・オブ・ゴッド」が高評価なのでよい。kiaoは、この本でケチョンケチョンに言われている、いわゆる「シチュエーション・スリラ」ってけっこー好きなんだけど(でも、そのなかにいる柳の下の鰌狙いはキライだけど)。映画……見てないな。