頭蓋の中、そこは密室に等しい

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

僕はもう十年以上彼に会っていなかったし、彼が僕のことをまだ覚えていたというだけでもちょっとした驚きなのだ。いったい何だって、そんな重い責任を僕が引き受けなければならないのか?一人の人間の裁判官となって、そいつのそれまでの人生が生きるに値するものだったかどうか裁きを下すなんて。

もうずっと会っていなかった親友ファンショー、ある日彼の妻であるソフィーという女性から、一通の手紙を受け取る。そこには、ファンショーが半年ちかくも行方をくらましていること、そしてもし自分に何かあったときには、僕に「あるもの」を託してほしいと言っていた、という内容が記されていた。そのあるものとは、彼が長年書き溜めて、かつ発表など一切しようともしていなかった、詩や戯曲、小説の束だった。それを世間に公表するべきものであるか、その判断すべてを、僕に委ねるという…。

それから、きわめて事務的に、われわれは僕が原稿を持って帰る最善の方法について話しあった。結局大きなスーツケースを二つ使うことにした。
(…中略…)
それから僕は二つのスーツケースを引きずってのろのろと階段を下り、表に出た。二つ合わせると、スーツケースは一人の人間と同じくらい重かった。

「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」に続く、「ニューヨーク三部作」をしめくくる作品。一見あまり関係ないように思われるこの3作品が、なぜそんな風に語られるのかといえば、なんのことはない。本人(本書の地の文の語り手)が、「これら一連の作品」と本書中で言及しているからだったのだ。なーんだ。

最初のほうは、展開があまりにもあれなんで、どこの昼メロだよ、と少々訝ったけれど。まあ、そこはオースター。メロドラマなんかにはさせませんよ、といった流れで物語を運んだので、まあ安心。

後半の、主人公の半狂乱状態に陥るまでの過程が、他の二作に比べると、ちょっと唐突すぎるな、とは思った。全体的な印象としても、他の二作に比べると薄味な印象ではある。それでも、ベタな展開を回避しているのは、さすが。墓場の話は、結構好きだったりする。また、ときどきはっとする文章にもめぐり合うことはできる。*1

いつもならファンショーは自分のおもちゃを気前よく僕にも使わせてくれたのに、この箱だけはべつだった。僕にとってそれは立入禁止区域であり、僕は一度もその中に入れてもらえなかった。ファンショーが言うには、それは彼の秘密の場所で、彼が中に入ってふたを閉じると、どこでも好きな所へ自由自在に行けるのだということだった。でももしほかの人間が一回でも箱の中に入るとその魔法は永久に失われてしまうんだ、と彼は言った。僕はこの話を信じた。だから胸がはり裂けるくらいつらかったけれど、僕も入れてよとせがんだりはしなかった。

個人的には「幽霊たち」→「シティ・オブ・グラス」→「鍵のかかった部屋」の順で、気に入っている。


関係ないけれど、ときどき「これ(作者or本)は、アイデンティティの問題を扱った作品である」という言葉を耳にする。が、大なり小なり、アイデンティティの問題をとりあつかわない作品なんてものが、この世には存在するのか?人が生きている限り、そこはファンダメンタルな部分だと思うのだが…。

*1:愛着についての会話は、スゴくウけるのだけれど、かなりオチのネタバレになるので、引用できないのが残念