黄金色の妖精はさよならを祈る

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

「それなら」
唾を飲み込む。勢いだけで言ってしまう。
「たとえばおれが死ぬとしても、気にするのはおかしなことで済ますのか」
「あら、守屋君、死ぬの?」
「たとえばと言っただろう」
薄い笑みが、太刀洗のくちびるに浮かんだ、そんな気がした。
「たとえにするには出来の悪い仮定よ、それ。答えてやれないわ」

再読ができない。再読に値しないとか、ネタがもうわれたんで読んでもしかたいとか、そんな意味ではなくて。
読書というのは、初読こそが体験であり、それ以降はいくら読み返しても思い出の再現、追想でしかないのだなということが、まざまざと心を締め付けた。本書の、物語における構造から作者の意図を読み取るのは、それほど難しいことではない。だが、意図がわかるからといって、それが作品の質を低下させるのかというと、そんなことはない。小説という(ここでは便宜的に)芸術作品が持つ、時間軸という大きな力を、こんなにも恨めしく、残酷だと思ったことは久しくなかった。

米澤穂信は容赦のない作家だと思う。文化系男子が好む妄想(それは得てして男子にとって都合のいい女の子像だったりする)を、真正面からぶった切ってくれる。重要なのは、それをシニカルに冷笑するでも、小バカにしておちょくるでもなく、正面から、真っ直ぐに打ちのめしてくれることだ。ライトノベルレーベル出身ということも大いに関係あるのか。自分が通ってきた道を、もう自分がそこにいないからといって、未熟なものだと切って捨てるという無責任なことはしない。自分が所属していたものに対して、そこから抜け出したとたんにそこを批難するような輩は、結局はどこに所属していようと、信用に値する人間ではないだろう。米澤穂信は、かつて自分がいた場所のありように対して否定をしないのと同時に、その場所が孕んでいる問題にも目を逸らさずに提起する*1。真正面からだからこそ、自分自身に拳を振るうように、主人公の特別性を剥奪し、打ちのめす。

本書を読んでいてずーっと感じていた、所謂「ボーイ・ミーツ・ガール」もののきな臭さ(と、異邦の少女に負わせる、言葉の拙さを純真さに摩り替える役目)を、最後の最後に覆してくれたのは、さすがだと感嘆。だが、その誠実さゆえ、再読さえも厳しく感じさせるほど、深い衝撃を受けさせるとは思いもよらなかった。本当に、容赦のない作家だ*2

*1:でも、古典部シリーズの新刊も読んでみたいが。

*2:特に344Pの太刀洗の叫びが、ものすごく痛ましくて印象に残った。