罪を背負った少女に、もう、用はない

GUNSLINGER GIRL 8

GUNSLINGER GIRL 8

完全に主人公がペトルーシュカになっちゃってるよ。前巻での感想で冗談で言ってみたのだが、なんか本気で相田裕はローティーンを描くのに飽きてきたんじゃないのかと。そう思えてきた。1期生の登場は、7巻ではほんと「一応忘れてませんよ」ぐらいのアピール程度。
5巻のピノッキオ戦で、物語の側からついに義体という存在の理不尽(的強)さを提示することができたのに。ピノッキオ戦が落とした影をそのまま引きずらせれば、義体が本来長持ちさせることのできない運命にあることと、義体という存在が(物語的にもメタフィクショナルにも)持つ不気味さを、読者の感情移入をうながしつつ彼女らの破滅に昇華させて(2期生への橋渡しという役目を達成しながら)うまく描くことができただろうに、相田裕はそれをしなかった。
そのかわりにおこなったのは、新たな「悲劇を背負った少女」の生成。彼女の役割は、またもや(物理的暴力をふるうことができる能力の所有とのコントラストとともに)純粋で無垢なる忠誠的愛情を発露させる人形(キャラクター)だ。
読者にとって、オッサンを殺すことに問題はない。なんせ、オッサンなんだし(ばかみたいな理由だけど、「GUNSLINGER GIRL」では当然の理由なのだ)。ついでに言えば、政治的な敵であるため、仕事であるから、しかたのないことなのだ。
だが、ピノッキオは違った。たしかに政治的な敵ではあったが、オッサンではない。こちらも「悲劇を背負った」、ある意味義体の少女たちと同じ立ち居地にいた存在だった。だが、トリエラは死闘の末ピノッキオを殺してしまう。この瞬間、トリエラは同族殺しという「罪」を背負ってしまった。もはや無垢ではない。「罪」を背負った大人へと成長してしまったのだ(そのため、7巻ではヒルシャーの「ラシェル もし彼女が無事に成長できていたなら こんな女性になっていたんだろうね」という台詞のとおり、彼女を大人へと変身させている)。
「GUNSLINGER GIRL」の目的に、義体の破滅というものは存在しない。あるのは、純粋で無垢な忠誠的愛情を持つ人形を愛でる視線だけ、なのか。次巻がアンジェリカの話になりそうなので、そこでどう転ぶかが義体の運命の分水嶺になるだろう。
純粋に、絵に関しては今巻が最もいい。観賞する。線の強弱が自在に操れるようになったように見える。舞台がけっこう動くので、いろんなイタリアが見れて楽しい。ジョゼさんが若返っているのは、義体の技術の応用?(笑)

追記
オッサンじゃない、それも政治的な敵でない人間を殺した例として第2話「Love the neighbor」でのホテルのボーイの少年が挙げられる。
この場合、リコが少年の好意を感じていたにもかかわらず手に持っていた銃で彼を始末してしまうのは、リコがそれ以外に方法を知らなかった(思いつかなかった)というある種の条件反射であり、そのように刷り込まれてしまっているリコへの同情(またそれが悲しいことだと気づくことができない彼女への悲哀)が、リコが無垢であること(と読者が感じること)を強めこそすれ、喪失することには至らない。
対して、ピノッキオ戦でのトリエラは「よくも私を撃ったな… ヒルシャーさんのくれた大事な銃で!!」と言うセリフのように、条件付けという枷はあるものの(これ自体も、留保事項だが)ヒルシャーに愛してもらうために、死すべき運命ではない(と読者が思う)ピノッキオを、自分の意思で殺してしまっている。愛してもらうために、殺すべき人間でない者を殺す、というエゴが発生している*1。このエゴが発生した瞬間に、義体の少女が持つ無垢性が喪失され、やはり「同族殺し」という罪を背負うはめになってしまっている。

*1:殺す以外に任務を遂行することができないギリギリの状況だったというのもあるが、対ピノッキオ戦では、メタ的に見ればそういう機能が働いている