どこか別の世界に繋がっているように見えても、そこはまだ「子ども部屋」なのか?

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか

購入きっかけは、もちろん舞城王太郎の作品が収録されていることを知ったからなのだけれど。で、当然の様に「僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。」「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって。(愛媛川十三名義)」「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる」を真っ先に読む。…んー、おもしろい。たしかに、小説というよりかは、実験的な、エッセイ的な風味が強い気がする。まだまだ雑誌発表のみの作品が多いので、こーいうやつを集めて出版してください。読みたいから。
で、それ以外の(失礼な!!)本書のメインである仲俣暁生氏の評論も読んでみる。ん、なかなか興味深い。初っ端の、青春小説を探偵小説という観点から解体してみせるのは斬新だ。

私の考えでは、「青春小説」とは「記述者=犯人=被害者=依頼者=探偵」であるような、ごく特殊な形式をもった「探偵小説」だからである。
(…中略…)
「青春小説」とは、基本的には探偵小説と同一の枠組みをもっていながら、不安定で自惚れに満ちた叙法によって語られる、不正確極まりない出来損ないの探偵小説なのだ。

この要旨に引っかかるものがある人ならば、読んでみて結論に至るまでの道筋も楽しめるはず。
本書自体は個別で発表された評論の寄せ集めで、「古川日出男論」とか「小林秀雄論」とか(おお、どっちもひでおだ)各作家論単位でだいたい区切られている。西尾維新が好きな人には、「「魔道市」はなぜナガサキにあるのか」で「新本格魔法少女りすか」にスポットをあてて高く評価しているので、一読してみてもいいかもしれない。
本書の題名「鍵のかかった部屋」の由来はオースターの作品からで、その作品の原題は「The Locked Room」である。それを密室ととり、人の頭の中こそがその「鍵のかかった部屋」である(つまりは密室)という考えは、やはり当然の考え方ですよね。そうした密室は、外部に扉が開かれていない(つまりは自分の世界観で完結してしまっている)子ども部屋と同じで、その子ども部屋をどう捉えるか、またはどう扱ってゆくのかが、小説における各ジャンルの違いに至るのはなるほどと思った。