山形浩生と舞城王太郎

山形道場―社会ケイザイの迷妄に喝!

山形道場―社会ケイザイの迷妄に喝!

ぼくが書くときのモデルは、なるべくだけれども「話しかける」モデルだ。だからぼくは言文一致をすごく大事だと思っている。口で人が他人に語りかけることばが変わっているのに、文字で人が話しかけることばが変わらないわけないじゃないか。
山形浩生山形道場 「一、二人称がない」

舞城王太郎と言えば、福井弁をふんだんに使用した圧倒的なドライブ感をもって、読者をあっという間に物語に引きずり込んで振り回してしまう。考えてみたらこの福井弁(と所謂方言)は、書き言葉でスタンダードになっている標準語よりも、人と人の距離を縮めてしまう魔術を持つ。日本語の標準語の大きな特徴は、それが圧倒的に書記言語偏重である*1とあり、標準語とは人為的に整備された規範的な言葉を指すである*2とある。そこにはある利点のために形成された痕跡を持つ、非自然発生的な側面がある。

この非常に作者と読者との距離感が近い状態で、最も効力を発揮するのはメッセージを伝えることだ。で、kiaoは以前 舞城の作品は「ストーリー」なのではなく「メッセージ」であり、「メッセージ」の手段としての「お話」なのだ。 と述べたし、九十九十九の感想でもあと、やたら現代作家を引き合いに出す(っても名前と作品名をアイテム的に出すだけなんだけど)のは、なんていうか、もっと戦いたいんだな、と。や、交わりたいんだ。で、ごっちゃごちゃになって刺激し合いたいんだ、と思う。と述べた。つまりは、作品を単に作品として終わらせてしまうのではなく、その作品を作ったことによって、やはり何かを伝えたい、自分たちをとりまいているこの状態を刺激し、揺さぶりたいという意思があるのではないか。

ぼくがいま訳している経済学の本は、常にこっちに話しかけようとして書かれているので、わかりやすいし、ぼくはすごく訳しやすい。自分が書くように、話すように訳せば、それでできてしまう。でも、ほかの人が訳した同じ著者の本を読むと、ひどく苦労している様子がありありとうかがえる。なぜってそれを訳してる人たちにとって、本とか文章ってのは語りかけるものじゃないし、人に何かを伝えるためのものじゃない。何かそれ自体で完結した、つるつるしたボールみたいなものだからだ。そういう本は、ぼくたち読み手のほうを向かずに、書かれている対象の方だけを見ている。そしてその対象についても傍観者的な態度でしか接しない。ぼくたち読み手は、書き手といっしょに傍観者になるしかない。それはぼくたちに何かを伝えることよりは、文章内部での矛盾のなさ、揚げ足取りの余地のなさ、あたりさわりのなさ、そんなものに一生懸命になっている。そのために、自分や読者という主観要素や不確定要素は極力取り除かれていく。結果として、文中の一人称と二人称がほぼ追放される。そしてそれが、「アンアン」から何とか論にいたる、あらゆる日本の文の主流を占めている。また、それは理工学系以外(場合によってはそれすらも)の日本のあらゆる文化的な閉塞感の原因でもある。(つづく、かもしれない)
山形浩生「山形道場 「一、二人称がない」


ま、単なる思い付き。「福井弁うんちゃら…」はおおざっぱなパブリックイメージということで。

*1:Wikipediaより

*2:Wikipediaより